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福島地方裁判所いわき支部 昭和61年(ワ)75号 判決

原告

亡伊藤七蔵訴訟承継人

伊 藤 キ ミ

外五〇名

右原告ら訴訟代理人弁護士

荒 木   貢

上 柳 敏 郎

大 堀 有 介

小野寺 利 孝

小 畑 祐 悌

河 西 龍太郎

斎 藤 正 俊

鈴 木 克 昌

土 田 庄 一

友 光 健 七

長谷川 壽 一

長谷川 史 美

服 部 大 三

広 田 次 男

前 川 雄 司

望 月 健一郎

森 田   明

安 江   祐

安 田 寿 朗

山 下 登司夫

山 口 英 資

山 本 高 行

田 中 由美子

木 下 淳 博

渡 辺 正 之

外一二名(訴訟復代理人たる代理人を含む)

被告

常磐興産株式会社

右代表者代表取締役

鈴 木 正 夫

右被告訴訟代理人弁護士

牧 野   彊

竹 内 桃太郎

石 川 常 昌

榊 原   輝

岩 井 國 立

牛 嶋   勉

鈴 木 春 樹

主文

一  被告は原告らに対し、別紙一認容金額一覧表「認容金額」合計欄記載の各金員及び同表「遅延損害金」欄記載の各金員を支払え。

二  原告らのその余の請求はいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを三分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、第一項記載の金員のうち前同表「認容金額」合計欄記載の各金員につき各二分の一の限度において仮に執行することができる。

理由

第一当事者等

請求原因第一、一の事実、及び同第一、二1のうち、原告渡部岩三郎を除くその余の原告ら元従業員が被告会社の従業員として稼働していたことがあること、原告渡部岩三郎が長倉炭砿株式会社及び常磐開発株式会社で、同菅野尚が株式会社常磐製作所の下請の後藤組でそれぞれ稼働していたことがあること、長倉炭砿株式会社が後に被告会社に合併されたこと、常磐開発株式会社及び株式会社常磐製作所が被告会社の系列下の子会社であること、原告ら元従業員がいずれもじん肺患者であること、その管理区分及び最終行政決定日がそれぞれ原告ら主張のとおりであること、原告ら元従業員の被告会社(原告渡部岩三郎については長倉炭砿株式会社及び常磐開発株式会社、同菅野尚については後藤組を含む)における就労期間、就労場所、職種については、別紙四に「被告の認否及び主張」として記載するもののほかは原告ら主張のとおりであること、並びに同第一、二2の事実はいずれも当事者間に争いがない。

第二被告会社及び長倉炭砿株式会社における粉じん作業の実態

被告会社の各砿において、掘進、採炭、仕繰、機電、運搬、積込みの各作業があったことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、右各作業の実施状況は、時代によって変遷はあるが、以下において砿或いは坑を特定して述べるもののほかは各砿各坑においてほぼ同様のものであったことが認められる。そこで、この点を踏まえたうえで、右各作業の内容及びその際の粉じん発生状況などについて検討する。なお、以下、本理由中において、証拠として掲げる書証については、いちいちその成立に開する判断の記載をすることはしないが、いずれも成立に争いがないか、又は証言等(弁論の全趣旨を含む)によって真正に成立したもの(写しについては原本の存在とも)と認められるとの判断をなしたものである。

一掘進

1  概要

〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

被告会社における石炭採掘作業は、まず、地表に坑口を設け、坑口から炭層に向かって斜坑を掘り、採炭区域に到達するとそこから炭層の上部に水平に坑道(水平坑道)を切り開き、炭層付近において水平坑道から炭層まで巻立を掘って着炭し、そこから炭層の中をその傾斜に沿って斜坑(沿道坑道)を掘り、更に沿層坑道の右あるいは左に沿層坑道と直角に交わる水平な坑道(片盤坑道)を幾つか開さくしたうえ、この沿道坑道と片盤坑道によって区切られた部分(これを沿層坑道の入口から近い順に右ないし左一片、二片、三片というふうに呼ぶ)において採炭作業を行うというものであった。なお、着炭するまでの坑道は、以後その採炭区域を開発する間、長期間にわたって維持、使用する坑道であるから主要坑道と呼ばれ、通常約三0ないし五0メートルの間隔をおいて二本平行して開さくし、一本を石炭、岩石等の運搬、入気等のために使用し、他の一本を排気、排水、作業員の移動等のため使用していた。

以上のような工程のうち、石炭層以外の岩盤(主として砂岩、頁岩)を掘って、主要坑道等を作る作業を岩石掘進といい、石炭層内に坑道を作る作業を石炭掘進と呼んでいた。

掘進作業は、岩盤又は炭壁面にさく岩機で穴を穿ち(さく孔)、そこにダイナマイトを装填して爆発させ(発破)、破砕された岩石又は石炭を搬出し(積込み)、発破によって切り開かれた個所に天盤を支える枠を入れる(枠入れ)という作業工程を、原則として右の順序で反復することによって行われた(岩石掘進作業において、積込みで始まり発破で終わるいわゆる「掛け上がり発破」が行われたこともあったが、それが例外的な場合に限られていたことは後記第五、一2(五)のとおりである)。また、一方の作業人員は通常五、六名で、三方、三交替制がとられていた。もっとも、昭和三0年代後半には、深部採掘と合理化のため一日四交替で行ういわゆる急速掘進の方法がとられることがあった。

坑道の大きさは、各砿においてそう違いはなく、岩石掘進の場合は、戦前で幅三メートル、高さ二メートル程度、戦後においては幅四ないし六メートル、高さ三メートル位であり、石炭掘進の場合は、幅三ないし四メートル、高さ二ないし二.六メートル位であった。

掘進切羽は、貫通しないトンネルの行き止まりのような場所であったから、局部扇風機と風管による強制通気を行っても、通気の状態は概ね不良であった。

2  さく孔

〈証拠〉を総合すれば、次の各事実が認められる。

さく孔作業にはさく岩機が用いられたが、被告会社において使用していたさく岩機は、石炭掘進においては全て乾式さく岩機であり、岩石掘進についても、昭和三一年ころ湿式さく岩機を導入するまでは乾式さく岩機であった。

さく岩機によるさく孔の仕組みは、圧縮空気を動力源として先端に装着されたタガネを回転させながら岩盤又は炭壁面を打撃し、岩石又は石炭を細かい粉に破砕して穴を穿つというものであり、その間破砕された岩粉や炭粉(繰り粉)は圧縮空気によって孔外に排出されたから、ことに乾式さく岩機の場合、作業員は夥しい量の粉じんに曝露した。湿式さく岩機を使用した場合は、乾式さく岩機を使用した場合に比べ、粉じんの発生量が概ね三分の一程度に抑えられた。

孔の大きさは、直径約四センチメートル、深さ約一ないし一.五メートルで、このような孔が、岩石掘進の場合で二七、八本、石炭掘進の場合で一四ないし一八本程度穿たれたが、岩石掘進の場合は、二台のさく岩機を使用することが多かったのに対し、石炭掘進の場合は、通常一台のさく岩機で作業していたこと、一般に岩盤よりも炭壁の方がさく孔し易いことなどの事情により、さく孔に要する時間は、いずれも約一時間程度であった。

さく孔が終わると、吸孔と呼ばれるパイプにさく岩機用のエア管を接続して、圧縮空気により孔中に残った繰り粉を排出する作業(孔ふかし)が行われたが、この作業の際にも、さく孔中と変わらない程の粉じんが発生した。

3  発破

〈証拠〉を総合すれば、次の各事実が認められる。  発破は、一方で通常一ないし二回行われたが、発破による粉じんの発生は著しく、掘進作業の全工程中で最も大量の粉じんが発生した。

発破の際、作業員は、切羽元から三0ないし五0メートル位離れた個所に退避するのが普通であったが、被告においては賃金につき半請負制(基本給プラス歩合給)がとられており、歩合給が掘進の距離によって決められていたことから発破後まもなく切羽に戻って作業を開始する場合が多く、作業員は、切羽に立ち込めている大量の粉じんに曝露した。

なお、〈証拠〉中には、常に、発破後一0分ないし二0分が経過し、切羽元の粉じんが完全に除去されてから作業を開始していた旨の証言があり、〈証拠〉中にも発破後約一0分位経ってから切羽に戻って作業を開始したとの証言部分があるが、前記の理由及び〈証拠〉等に照らして、右のような状況が常態であったとは考え難く、これをもって前記認定を左右することはできない。また〈証拠〉によれば、やや間をおいて切羽に戻っても、多量の粉じんがなお沈下せずに浮遊しており、状況は余り変わらなかったことが認められる。

4  積込み及び枠入れ

〈証拠〉を総合すれば、次の各事実が認められる。

積込み作業は、手積みの場合は、高さ一メートル余りの炭車にスコップで岩石や石炭を放り投げて積み込む作業であり、その際に多量の粉じんが発生した。昭和二九年ころからは、ロッカーショベル等の積込機械が導入されるようになったが、これにより粉じんの発生は更に甚だしくなった。

また、切羽より炭車の軌道末端が離れている場合に、石炭を放り投げて炭車まで運ぶ「カッポリ返し」と呼ばれる作業が行われることがあり、このような場合は更に粉じんの発生量が増大した。

枠入れ作業は、それ自体粉じんを発生させるものではないが、さく孔、積込みなどの作業と平行して行われることが多く、また、枠入れの準備作業である木枠作りも切羽近くでおこなわれるのが通常であったから、枠入れ作業に従事した作業員も、他の作業によって発生する粉じんに曝されることが多かった。

二採炭

(被告会社における採炭作業)

〈証拠〉を総合すれば、次の各事実が認められる。

1 残柱式採炭法

残柱式採炭法は、ある採炭計画区域の中央に沿層斜坑を掘り、その左側及び右側にそれぞれ二0ないし三0メートルの間隔で二本ずつ片盤坑道を掘進し、更に二本の片盤道間に二0ないし三0メートル毎に昇坑道を掘進して連絡させ、これによって区切られた正方形又は長方形の炭柱を残しながら採炭する方法であり、被告会社炭鉱においては、戦前から昭和二五、六年ころまでこの方法が採られていた。

残柱式採炭法は、坑道を掘進すること自体によって採炭することを主とした採炭方法であるから、その際の粉じん発生状況及び粉じん曝露のおそれは、石炭掘進作業におけるそれとほぼ同様であった。

2 長壁式採炭法

(一) 長壁式採炭法は、沿層斜坑から切羽長(数十メートルないし百数十メートル)に応じた間隔で二本の片盤坑道を開さくし、奥部の予定限界線に到達すると下側の片盤坑道(下添坑道という)から昇坑道を掘って上側の片盤坑道(上添坑道という)に連絡し、これを採炭切羽として直線に保ちつつ沿層斜坑の方向に掘り進むものである。この長い切羽の天盤を支えるために当初は支保に木材の坑木及び木梁が使われたが、昭和二0年代の後半から鉄柱とカッペと呼ばれる連結式の金属梁が支保として使用されるようになり、特にカッペを使用した採炭方式をカッペ採炭と呼んだ。木梁を使用した初期の長壁式採炭は、昭和二0年代半ばころまで、一部の地域で小規模に行われたにすぎず、また、その作業手順は概ねカッペ採炭と同様であるので、以下にはカッペ採炭についてみることにする。

(二) カッペの導入により、長大な切羽を維持することが可能になり、また、炭壁面を無支柱とすることができるようになった(初期の木梁を用いた長壁式採炭では、木枠の一方を切羽面に接して立てざるを得ないため、それが作業の障害となっていた)ことから、作業能率が大幅に向上するとともに、各作業が並行して行われるようになり、それにともなって粉じんの発生量も増大した。そして、発生した粉じんは通気により上添側に流れて行くので、上添側で作業している者はより多く粉じんに曝されることとなった。

カッペ採炭における作業員は、一切羽、一方二0数名ないし三0数名であり、これらの作業員が、係員、カッペ長らの指揮のもとに、さく孔、発破、カッペの延長、払い面の積込み(発破により崩落した石炭をコンベアーに積み込む作業)、炭車の積口(コンベアーで運搬された石炭を炭車に積み込む作業)、立柱、抜柱(切羽の払いの進行とともにカッペや鉄柱を移動させる作業)、移設(炭壁面に敷設してあるコンベアーのトラフ及び動力を払いの進行にしたがい炭壁面に近づける作業)などの作業を分担して行った。

(三) カッペ採炭におけるさく孔は、二台のさく岩機を一台二人一組で使用し、一回の発破のために一五、六本の孔を穿つというものであったが、その際の粉じん発生状況は、石炭掘進におけるさく孔の場合と同様であった。

また、発破は、電気発破を一方数回行うようになった。その際、作業員は、発破個所から三0メートル以上離れた入気坑道である下添坑道に退避したが、一、二名の発破警戒員は、排気坑道である上添坑道に退避したので、警戒員は他の作業員に比してより多くの粉じんに曝された。

発破によって崩落した石炭のうち、直接コンベアーに乗らなかったものは、スコップでコンベアーに積み込んだが、その際にも粉じんが発生した。また、切羽のコンベアーで運ばれた石炭が片盤坑道のコンベアーに落ちる個所(戸樋口)においても、散水の不十分なときには粉じんが発生した。

更に、カッペ採炭になってからは、払い跡の天盤を崩落させる跡破し作業を行うようになったが、天盤が自然に崩落しないときは、発破をかけて崩落させた。この作業の際には多量の岩石粉じんが発生した。

3 機械採炭

機械採炭は、長壁式でカッペを用いる点ではカッペ採炭と同じであるが、発破によって行われていた作業の一部又は大部分を採炭機械を用いて行う点に違いがある。これにより、発破の回数は減じたから、発破による粉じんの発生は減少することとなったが、採炭作業そのものに伴う発じん量は機械化により大幅に増大した。

(一) コールカッター採炭

炭層を切截するための自動鋸のようなものであり、ピックを取付けたチェーンを回転することによって炭層に水平な切れ目を入れた。これにより、炭層の自由面(空気に触れる面)を大きくして、発破効率を増大させようとするものである。刃が一枚のもの(シングル・ジブ・コールカッター)と二枚もの(ダブル・ジブ・コールカッター)があった。

被告会社は、シングル・ジブ・コールカッターを戦前の一時期使用したほか、ダブル・ジブ・コールカッターを昭和三0年ころ導入し、湯本五坑、鹿島五坑等で使用した。

(二) ドラムカッター採炭

切截用のピックを取りつけたドラムを回転させることによって石炭を削り取る機械であり、ドラムが一個のもの(シングル・ドラムカッター)と二個のもの(ダブル・レンジング・ドラムカッター)があった。

ドラムカッターによる採炭は、切羽の下端及び上端を数メートル先行採掘したうえ(これをステーブルという)、そこにドラムをあてて回転させながら、本体をコンベアー上を走行させることによって行われた。切截中は切截部分に対する散水が行なわれていたが、それでも夥しく粉じんが発生した。

シングル・ドラムカッターを使用した場合には、炭層の下部(高さ約一メートル、深さ六0ないし七0センチメートル)しか採炭できないので、残った炭層上部の石炭を崩落させるためには、更にさく孔したうえ発破をかける必要があった(もっとも、ダブル・レンジング・ドラムカッターを使用した場合は、ほぼ全断面の切截が可能であったから、発破をかけることは少なかった)。また、ドラムカッター稼働中に挟み(炭層中に挟まれた岩石層)が出てきた場合には、カッターの破損を防ぐため、発破によりそれを除去する作業が行われた。したがって、その際にも多量の粉じんが発生した。

被告会社は、昭和三五年ころ、シングル・ドラムカッターを導入し、湯本砿などで使用したほか、昭和四三年ころからは全切羽でダブル・レンジング・ドラムカッターを使用した。

(三) ホーベル採炭

ドラムの代わりに切截部が鉋のようになっている採炭機械であって、その作業手順はドラムカッターのそれと同様であり、発じん状況もほぼ同じであった。

被告会社においては、昭和三七年ころから盤崎本坑の一部で使用された。

(長倉炭砿株式会社におけるカッペ採炭)

〈証拠〉によれば、同人が長倉炭砿株式会社に入社した二、三か月後には同社においてもカッペ採炭方式が採用され、同人は以後同社を退職するまで、この方式による採炭作業に従事したこと、同社におけるカッペ採炭の方法も前記認定の被告会社炭鉱のそれとほぼ同様であったが、ただ切羽面長が一0メートル程度と規模が小さく、このため人員も一方あたり五ないし七名で、さく孔本数も一発破あたり一0本程度であったこと、以上の事実が認められる。

三仕繰

〈証拠〉を総合すれば、次の各事実が認められる。

仕繰作業は、坑道を保持するため、矢木、押木、枠などを取り替えたり、盤圧によって変化した下盤、天盤などを補修したり、坑道を切り拡めたりすることを内容とする作業であるが、仕繰夫は他に捲場作り(捲揚機を設置する場所を坑内に設ける作業)や撤収作業も行っていた。

1  矢木や押木の取替作業及び坑木の撤収作業の際には、それらの物の上に堆積した粉じんが舞い上がったほか、取替えのためコールピック等で天盤を削ったり、根掘りをしたりする際にも粉じんが発生した。また、坑道の補修・拡大作業及び捲場作りの際には、やはりコールピック等で天盤を削ったり、根堀りをしたりする際に粉じんが発生したほか、削ったズリ(岩石)を炭車に積むときや、固い岩石に発破をかけるときにも粉じんが発生した。

2  仕繰夫には、主要坑道を担当する者と片盤坑道を担当する者があったが、いずれの場合も、他の作業現場で発生し、坑内を浮遊する粉じんに曝された。ことに排気坑道で作業するときはそのおそれが大きく、中でも払いの上添坑道で作業する場合には、切羽と同じかそれ以上の粉じんに曝された。

四その他の作業

1  運搬

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

運搬作業は、石炭やズリを積載した炭車を捲揚機や電車で牽引し、坑外に運搬する作業及び空車や材料を坑内に運び入れる作業を内容とするものであった。

炭車は入気坑道を往来していたが、十分な散水がなされていないと、風圧や炭車の移動に伴う振動により、坑道内に堆積した粉じんは拡散・浮遊し、炭車に積載された石炭やズリからも粉じんが舞い上がることとなった。ことに炭車の後部に添乗していた作業員はこれらの粉じんに曝されるおそれが大きかった。

2  機電

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

機電作業は、坑内で使用される各種機械の敷設・点検・修理、水管・エア管・風管・電気ケーブルの延長及び各種機械の運転などをその内容とするものであった。

機電作業自体は粉じんを発生させるものではなかったが、さく孔、発破、積込み、運搬などの坑内作業によって発生した粉じんは、坑内全体に拡散していき、坑内の殆どの場所では程度の差はあれ、常時粉じんが浮遊している状態にあったから、機電作業に従事する者も、坑内にいる以上、他の作業により発生した粉じんに曝されるおそれはあった。ことに延長廻りの作業は、採炭や掘進の切羽近くで行われたから、そこで発生する粉じんに曝されることとなった。

3  積込み

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

積込作業は、石炭を貨車で出荷するための坑外作業であり、貨車をマンゴクの下へ誘導し、マンゴクから貨車に石炭を流し入れて積み込み、積んだ石炭をならし、散らばった石炭をかたずけるという一連の作業を数名の者が分担して行うというものであった。

選炭場からマンゴクに送られてくる石炭は、選炭の際に一度水をくぐっていたが、それでも、マンゴクから貨車に石炭を積み込む際には、石炭が勢い良く流れ込むため、多量の粉じんが発生した。

五坑内の湧水・滴水と粉じんの発生

〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められる。

被告会社炭鉱の石炭採掘地域は温泉地帯に位置していたところ、稼行炭層が主に一層で約一0度の傾斜があったため、深部移行速度が速く、このため殆どの場合温泉水の水位より下部での採掘作業を強いられていた。それ故、被告会社各坑においては、常に温泉水が坑内に出水する危険があった。また、温泉水以外にも雨水や河川の水が浸透してそれが坑内に流入することも多かった。このため、被告会社炭鉱の総排水量は他の炭鉱に比べてかなり多く、また相当数の出水事例があった。

しかし、温泉水や雨水などが貯溜するのは主として断層であったから、坑内に湧水・滴水が生ずるのは主に断層を通過する個所に限られていたし、しかも、被告会社は、生産現場を維持するため、坑内防水の観点から先進ボーリングを行って坑内水の源泉を発見し、それが坑内に流入するのを防ぐため強制抜水やセメント注入などを行い、また終掘した坑を排水専用に利用する(住吉二坑、本坑、湯本四坑)などの坑内防水措置をとっていたから、坑内に流入する湧水・滴水はそれほど多くはなく、相対的には湿った切羽よりも乾いた切羽のほうが多かった。また、湿った切羽であっても、作業時には相当数の粉じんが発生していた。

〈証拠〉中には、あたかも被告会社炭鉱の坑内は湧水、滴水により常に湿潤で、各種作業中にも殆ど粉じんの発生はなかったかのような証言があるが、右各証言は、概ね抽象的で具体性に乏しいうえ、具体的な証言(さく孔の際の粉じん発生状況に関し「シャーベット状の繰り粉が出てきた」など)についても一部の事例を一般化したものではないかと考えられるふしがあり、また、粉じんの発生がなかった旨の各証言は、いずれも粉じん測定機器を用いての調査結果に基づくものではなく、単にヘッドランプの光を通して肉眼で観察した印象であるなどというのであるから、いずれの証言も本項冒頭掲記の各証拠に照らしてにわかに措信し難く、これらをもって前記認定を妨げる証拠とはなしえないものといわなければならない。

第三常磐開発株式会社において原告渡部岩三郎が従事した作業の内容及び株式会社常磐製作所において原告菅野尚が従事した作業の内容について

一原告渡部岩三郎が、被告会社退職後の昭和三七年九月から同四五年六月までの間、常磐開発株式会社で稼働したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、右の間同人が従事していたのは、土木、解体作業であったが、仕事量の半分は、コンクリートでできた家の基礎をピックで破砕する作業であったこと、右破砕作業の際には多量の粉じんが発生し、ことにその作業を屋内で行うときは多量の粉じんに曝露したことが認められる。

二原告菅野尚が、被告会社退職後の昭和四二年六月から同五八年までの間、株式会社常磐製作所の下請である後藤組においてサンドミール作業という粉じん作業に従事していたことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、右作業は砂と薬品を混ぜ合わせた練り状の製品を作る作業であり、その具体的内容は、バケットに入った砂をホイストで地上約六メートルの高さに持ち上げて、これを直径約二メートルの鋼鉄製の臼に落とし入れ、これに水その他を加えて右臼に設置された鋼鉄製の羽とローラで掻き混ぜながら磨り潰していくというものであったこと、右作業の際には多量の粉じんが発生し、同人がその粉じんに曝露したことが認められる。

第四原告ら元従業員のじん肺罹患

一じん肺の病像

じん肺が、粉じんを吸入することによって肺に生じた繊維増殖性変化を主体とする疾病であることについては当事者間に争いがなく、〈証拠〉を総合すれば、じん肺の病像について次の各事実が認められる。

1  じん肺とは、臨床病理学的には、「各種の粉じんの吸入によって胸部X線に異常粒状影、線状影があらわれ、進行に伴って肺機能低下をきたし、肺性心にまで至る、剖検すると粉じん性繊維化巣、気管支炎、肺気腫を認め血管変化を伴う肺疾患である。」と定義することのできる疾病である。

2  病理機序

吸入された粉じんのうち、その多くは生体防御機能によって体外に排出されるが、なお一部は肺胞内に到達する。すると肺胞壁から出てくる喰細胞がこれをその体内に取り込んで肺間質のリンパ管に入り、リンパ腺に運ばれてここに蓄積される。そして、珪酸分を多く含む粉じんの場合は、リンパ腺にたまった粉じんは、さらにリンパ腺の細胞を増殖させ、その結果細胞が壊れて膠原線維(線維状の一種の蛋白質で、ある場所を塞いだり、細胞などを支持する役割しか果たせないもの)が増加し、線維で置き換えられたリンパ腺は、リンパ球の生産、有害物の解毒物等の本来の機能を果たせなくなる。

リンパ腺がこのように閉塞されてしまうと、そのあとで吸入された粉じんは肺胞腔内に蓄積することになるが、こうなると肺胞壁が壊れ、そこから線維芽細胞という線維を作る細胞が出てきて、肺胞腔内にも線維ができ、硬い結節ができてくる。これがじん肺結節である。

珪酸分の含有量の少ない粉じんの場合は、これを多く含む粉じんに比べてリンパ腺に行きにくいものが多く、その場合は、初めから右のような肺胞腔内の繊維増殖性変化を主体とすることとなる。

じん肺結節の大きさは、0.五ないし五ミリメートル以上にわたるが、吸じん量が増加するほど大きさも数も増えていき、最後には融合して手拳大の塊状巣を作ることになる。結節が増大するということは、その領域の肺胞壁が閉塞することであり、塊状巣のなかではかなり大きな気管支や血管も最後には狭窄したり閉塞したりする。

このような粉じん変化の進行につれて、気管支変化も必発する。すなわち、臨床的に気管支炎がなくとも、細小気管支腔は狭くなって、呼気時に気道の抵抗が大きくなり、末梢の肺胞壁に負担がかかり、次第に壁が破れて、肺胞腔は拡大し肺気腫を生じる。気腫壁には殆ど血管がないから、空気が入ってきてもガス交換を行うことができないようになる。

このような肺気腫の形成や肺内血管変化によって、血中酸素が欠乏し、肺循環障害が起こり、ついには右心室の負担過重から肺性心にまで至る。

もっとも、じん肺に罹患するか否か、じん肺に罹患するまでの期間、じん肺罹患後の症状の進行経過などにはかなり大幅な個人差が認められる。

3  症状と特質

(一) 自覚症状としては、咳、痰、呼吸困難、心悸亢進、胸痛背痛、倦怠感などがある。また、風邪をひきやすくなり、一旦ひくとなかなか治らないようになる。

他覚的な症状としては、血中酸素の欠乏の結果、老人性顔貌、るい痩、チアノーゼ、バチ状指などが現れる。

(二) じん肺の病変には、(イ)初期の段階の炎症性変化に対しては治療効果を認め得るが、繊維増殖性変化、気腫性変化、進行した炎症性変化、血管変化については治療方法がない(不可逆性)、(ロ)粉じん職場を離れても、肺内に堆積した粉じんの量に対応して病変が進行する(進行性)、という特質があるほか、(ハ)じん肺施行規則はじん肺の合併症として、肺結核、結核性胸膜炎、続発性気管支炎、続発性気管支拡張症、続発性気胸を指定しているが、近時においては、このほかにも合併症として、胃腸管障害、各種臓器の悪性腫瘍、血管障害、虚血性心疾患、中枢神経系の障害、免疫異常等の各種障害があり、このように全身性疾患であるというところにじん肺の特質があるとの指摘もなされている。

4  炭鉱夫じん肺の特徴

炭鉱夫にみられるじん肺は、一般に炭肺と呼称されるが、炭鉱夫の吸入する粉じんは炭粉に限られず、岩石粉じんその他の鉱物性粉じんも同時に吸入するのが普通であるから、炭鉱夫のじん肺は、講学上の「炭肺」と一致せず、通常炭肺と珪肺が合併した非典型珪肺(炭珪肺)として発生する。

炭粉は各種粉じんのなかで最も繊維増殖能が低く、このため炭珪肺にあっては、レントゲン上の結節像は不明瞭となる。しかし、炭粉でも、大量に吸入すれば異物性の肺胞炎の結果としての繊維増殖を招来するし、気腫性の変化は顕著に示すから、これによって重大な心肺機能の障害がもたらされる。

二原告ら元従業員のじん肺罹患とその原因

1  原告ら元従業員の作業歴と粉じんの吸入

(一) 原告ら元従業員のうち、金野武雄、木暮皖一、小山武、平澤戰治、鈴木民之進、三本松良徳については、同人らの被告会社における作業歴について当事者間に争いがなく、又、渡部岩三郎の長倉炭砿株式会社における作業歴についても当事者間に争いがない。

更に、遠藤寅雄、高橋利右衛門については実質的には当事者間に争いがなく、又、佐々木栄治についても概ね争いがないものといってよい。

なお、本多友治郎の被告会社それ自体における粉じん作業歴については実質的に争いがないものということができる。

また、証拠によれば、原告らの元従業員中、伊藤七蔵(〈証拠〉)、後藤慶治(〈証拠〉)、杉島十喜郎(〈証拠〉)、溝井助吉(〈証拠〉)、皆川宮次(〈証拠〉)、名城安恵(〈証拠〉)、川﨑喜代(〈証拠〉)、高橋重度(〈証拠〉)、平澤景和(〈証拠〉)については、同人らの被告会社における作業歴は概ね被告主張のとおりのものと認められる(これらの者については原告らの主張に沿う各供述録取書又は陳述(録取)書などがあるけれども、そのうち右認定に反する部分は右各人毎にかっこ内に掲記した証拠に照らして措信することができない)。これに対し、高木隈雄(〈証拠〉)、菅野尚(〈証拠〉)については、同人らの被告会社における作業歴は概ね原告ら主張のとおりのものと認められる。

なお、武田直次郎及び渡邊三郎については、原告らの主張に沿う内容の〈証拠〉があるけれども、正確な時期的区分ということになるとこれらの証明力には多分に疑問があるものといわなければならないから、右両名の関係については当事者間に争いのない範囲以外の事実はこれを認めるまでには至らず、結局は被告の主張するところを認定したと同一の結果に帰する。

(二) 右(一)の事実と前記第二で認定した各職種の作業内容及び粉じん発生状況等によれば、原告ら元従業員は、右作業の期間中、その職種に応じて発生する粉じんに曝され、これを吸入したものと認められる。

2  原告ら元従業員がじん肺に罹患していること、その原因は粉じんの吸引にあることは当事者間に争いがないところ、原告ら元従業員が吸引した粉じんとしては、右1にみた原告ら元従業員の就労の機会に曝露されることのあった粉じんであるものと考えるのが相当である。以下、その理由を述べる。

(一) 前記1(一)で認定した事実によれば、原告ら元従業員のうち、伊藤七蔵、金野武雄、木暮皖一、後藤慶治、杉島十喜郎、高橋利右衛門、平澤戰治、名城安恵、鈴木民之進、遠藤寅雄、高橋重度、佐々木栄治はいずれも二0年以上、皆川宮次は一九年一か月、平澤景和は七年五か月、それぞれ被告会社において粉じん作業に従事していたものである。もっとも、別紙五のとおり、これら一四名のうち、金野武雄、木暮皖一、杉島十喜郎、鈴木民之進、高橋重度の五名については、日雇人夫、土方、兵役、他会社等の被告会社以外での粉じん職歴があった旨の被告の主張が存するが、これについてはいずれもそれが粉じん作業であったと認めるに足りる証拠はないから、結局、右一四名はいずれも、被告会社における就労の機会を除けば、著しい粉じんに曝されたことがないことに帰するのである。そうすると、右一四名のじん肺罹患と被告会社での粉じん作業との間には疑問の余地がない程に因果関係があることが推認され、右推認を覆すに足りる事実及び証拠はない。

(二) 原告ら元従業員のうち、小山武が金山で六か月、渡邊三郎が他炭鉱で三年七か月、三本松良徳が鉄鉱山で二年四か月、それぞれ粉じん作業に従事したこと、溝井助吉が朝鮮の炭鉱で八年程度稼働したことがあることはいずれも当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、高木隈雄が採石会社で四年五か月稼働したことがあること、〈証拠〉によれば、川﨑喜代が他炭鉱で三年一か月採炭夫として稼働したことがあること、〈証拠〉によれば、本多友治郎が被告会社の下請けの作業員として主として被告会社炭鉱で主に岩石掘進作業に従事したことが認められる。ところで、原告らは右の間の高木隈雄の職種は雑役にすぎなかったとか、溝井助吉の職種は専ら現地人の技術指導であったなどと主張するけれども、採石業や炭鉱はいずれも典型的な粉じん職場であるから、やはり粉じんに曝される機会は多かったものといわなければならない。しかし、前記1(一)でみたところによると、小山武は一七年、高木隈雄は四0年近く、溝井助吉は一0年七か月、渡邊三郎は六年三か月、本多友治郎は二八年、三本松良徳は一五年七か月、川﨑喜代は二八年一か月、それぞれ被告会社で坑内における粉じん作業に従事していた(三本松良徳については更にその後一三年間にわたって坑外における運送積込作業に従事していた)のであって、いずれも、被告会社以外での粉じん作業従事期間が、被告会社でのそれに比べ著しくないしは相対的に短期間であることが認められるから、右七名のいずれの者についてもそのじん肺罹患と被告会社での粉じん作業との間に因果関係が推認され、右推認を覆すに足りる事実及び証拠はないものということができる。

なお、被告は、溝井助吉が鳶職として稼働したこと、本多友治郎がゴルフ場建設及び道路建設工事に従事したことも粉じん職歴として主張するけれども、そもそも右のような職種をもって粉じん作業と考えることはできない。

(三) 渡部岩三郎が、(イ)長倉炭砿株式会社に勤務する以前他炭鉱等で一六年五か月坑内における粉じん作業に従事したことは当事者間に争いがなく、一方、(ロ)長倉炭砿株式会社で採炭作業に従事していたのは四年七か月、(ハ)常磐開発株式会社で粉じん作業に従事したのは七年九か月である。ところで、原告ら(渡部岩三郎)は(ハ)も又同人のじん肺の罹患の原因として捉えたうえで、右常磐開発株式会社が被告会社の子会社であることから、(ハ)も被告の安全配慮義務違反である旨主張するのであるが、後記第五、一1(二)でみるとおり、当裁判所はこのような考えに与しないから、結局(ロ)のみが問題とされるわけである。しかして、(イ)は(ロ)に比べ著しく長期に及んでいることが明らかであり、しかも、同人は昭和四四年八月一七日と比較的早期に管理四の行政決定を受けているのであって、この点と先にみたじん肺の特質をも併せて考えるならば、同人は(イ)によって既にじん肺に罹患していたのではないかとの疑問も生じないではない。しかし、長倉炭砿株式会社入社時にじん肺検診を実施していないためにその時点における同人の健康状態、特にじん肺罹患の有無を正確に判断する資料がないうえ、同人がその後においても採炭という坑内の重労働に相当期間従事し((ロ))、更にその後もかなりの期間にわたり粉じん作業に従事しえている((ハ))ことに鑑みれば、直ちに右のとおり断ずるわけにもいかないのであって、結局、(ロ)と同原告のじん肺罹患との間の因果関係を否定するまでには至らないものというほかはない。ただ、同原告のじん肺罹患という結果は(イ)ないし(ハ)が競合しているものと推認するのが自然かつ合理的であって、しかも、(イ)は(ロ)と同種の坑内作業であるうえ、その期間は(ロ)に比して著しく長期に及んでいるのであるから、むしろ(イ)の方が主要な原因をなしているものとみて差し支えないであろう。

(四) 武田直次郎と菅野尚については、被告は被告会社炭鉱における就労と両名のじん肺罹患の因果関係を特に強く争い、前者は被告会社より前に就労していた足尾銅山での採鉱作業の際に、後者は被告会社退職後に従事した後藤組におけるサンドミール作業の際に、それぞれ吸引した粉じんによりじん肺に罹患したものである旨主張するので、以下、この点につき検討する。なお、原告ら(菅野尚)においては、右サンドミール作業における粉じん吸引をもじん肺罹患の原因としてとらえたうえで、後藤組の元請である株式会社常磐製作所が被告会社の子会社であることを理由にこれを被告の安全配慮義務違反として構成しているのであるが、後記第五、一1(二)においてみるとおり、この主張は採用しえないから、ここで、右サンドミール作業に伴う粉じん吸引と切り離したうえで、被告会社の粉じん職場における粉じん吸引が菅野尚のじん肺罹患の原因となったものといえるか否かについて判断することとする。

(1) 武田直次郎が昭和一五年一一月から同二一年一月までの間足尾銅山において採鉱作業に従事していたことは当事者間に争いがなく、又、昭和二一年三月から被告会社に移り、当初は坑内作業に従事していたが、その後坑外作業に転じたことも既にみたとおり当事者間に争いがない(但し、その時期、各就労場所及び具体的な職種を除く)。しかして、〈証拠〉によれば、直次郎は身体がきつくて坑内作業には耐えられないと申し出て、自ら坑外作業に変わったこと、そのことによって格段に賃金が低くなり生活が困窮することが目に見えていたにも拘らずそうしたこと、傍目で見ても直次郎が苦しそうだったのでマツノとしても右の職種の変更に異議をさし挟むことはできなかったことが認められ、これらの事実は、当時直次郎の健康状態が既に相当悪化していたことを窺わせるに足るものである。しかも、その時期が足尾銅山から被告会社に移ってそれ程長期間経過した後ではなかったことをも考え併せれば、直次郎は被告会社に移る以前に既にじん肺に罹患していたのではないかということも多分に疑われないではない。

しかし、被告会社において直次郎の右のような職歴を把握していながら採用時にじん肺検診を実施していないところから、当時の直次郎の健康状態、特にじん肺罹患の有無を正確に判断するに足る資料がないことに鑑みれば、直次郎の病変がじん肺であったものと断ずることにはなお疑問も残るのであって、結局被告会社における粉じん吸引との因果関係を否定するまでには至らず、せいぜい足尾銅山における採鉱作業と被告会社における粉じん作業とが相俟ってじん肺に罹患したものであり、かつ、前者の影響が相当に大きいであろうということが推認されうるというにとどまるのである。

(2) 菅野尚については、同人が被告会社退職後昭和四二年六月から同五八年六月までの一六年もの間、常磐製作所の下請である後藤組においてサンドミール作業という粉じん作業に従事していたことは当事者間に争いがない。のみならず、これが菅野のじん肺罹患の原因になっていることについても当事者間に争いがない(むしろ右事実自体は当事者双方ともに積極的に主張するところであり、それが被告の責任に帰せしめられるべきものであるか否かが専ら争われているにすぎない)。被告は右事実に加えて、菅野は、被告会社在職中のじん肺健康診断においてはじん肺罹患の徴候は認められず、再就職先における昭和四二年、同五0年のじん肺健康診断においても何らの異常所見が認められなかったのであるから、被告会社における就労と同人のじん肺罹患に因果関係はないと主張するのである。しかし、〈証拠〉によれば、被告主張にかかる右事実はそのとおり認められるものの、先に見たじん肺の特質に鑑みれば、この病状は当該粉じん職場離脱後相当期間を経過してから顕在化するのがむしろ通常であるから、菅野が被告会社において二0年以上もの長期間に亘り、相当程度粉じんに曝されることのある運搬作業に従事してきたことが認められる以上、被告主張の右の一事をもって被告会社における就労と菅野のじん肺罹患の因果関係を否定し去ることはできないものといわなければならない。

第五被告の責任

一債務不履行責任

1  安全配慮義務

(一) 原告ら元従業員(渡部岩三郎を除く)が被告会社に雇用されていたことは当事者間に争いがないから、被告は右の原告ら元従業員に対し、信義則上、雇用契約に付随する義務として、右の原告ら元従業員が労務に従事するにあたり、その生命及び健康に危険を生じないように具体的状況に応じて配慮すべき義務を負っていたというべきである。

また、渡部岩三郎が長倉炭砿株式会社に雇用されていたことは当事者間に争いがないから、同会社は右同人に対して右と同様の義務を負っていたものということができる。

(二) 同様に、常磐開発株式会社は渡部岩三郎に、後藤組は菅野尚に対して右義務を負っていたものというべきであるが、原告ら(渡部岩三郎及び菅野尚)は、常磐開発株式会社及び後藤組の元請である株式会社常磐製作所は共に被告会社の子会社であって、その系列・支配下にあったから、被告会社は右両会社の従業員に対しても右と同様の義務を負っていた旨主張するので、ここでこの点について判断を加えておくこととする。

常磐開発株式会社は昭和三五年一0月に設立された法人であり、設立時から渡部岩三郎の退社時である昭和四六年六月ころまでの同社の役員の殆どが被告会社と何らかの関係があった者であること、株式会社常磐製作所は昭和三八年三月に設立された法人であり、被告会社は、株式会社常磐製作所の設立時から現在まで同社の役員の半数前後を送り出し、かつその代表取締役も設立時から昭和六一年八月まで被告会社の代表取締役が兼任してきたこと、この間被告会社が株式会社常磐製作所の株式の過半数を所有してきたことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、常磐開発株式会社は、少なくとも昭和三七年五月から昭和五二年三月までの間は被告会社が一00パーセント出資している被告会社の完全な子会社であったことが認められる。

しかし、常磐開発株式会社及び株式会社常磐製作所の法人格が全くの形骸にすぎないというようなことはなく、又、被告会社が法の規制を回避するためなど正当でない目的をもってこれらの会社を設立してその法人格を濫用しているとか、或いは又、日常の業務においてもこれらの会社の独自性が否定される程に密接な支配・従属の関係があるなどの事情を窺わせる証拠はないのであって、このように常磐開発株式会社及び株式会社常磐製作所が被告会社とは別個独立の実体のある法人格を有する以上、被告会社の子会社であるとの一事をもって、これらの会社を被告会社と実質的に同一のものとみなすことはできない。したがって、以下においては、渡部岩三郎の常磐開発株式会社における作業歴及び菅野尚の後藤組におけるそれはともに考慮の外におくこととする。

(三) ところで、本件は、原告らが被告に対し、原告ら元従業員が被告会社(渡部岩三郎については長倉炭砿株式会社)において粉じん作業に従事したことによりじん肺に罹患したとして、損害賠償を求めている事案であるから、ここで問題となるのは、右の一般的な義務のうちじん肺防止に関するものであり、その具体的内容は、じん肺についての医学的知見、じん肺防止に関する工学技術水準及び行政法令等を総合考慮して確定されなければならない。

(1) じん肺特に炭鉱夫じん肺についての知見及びじん肺防止措置

① 〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

外国では石工のじん肺などについてローマ時代から記述があり、我が国においてもじん肺は「ヨロケ」として相当古くから知られていた。明治時代には、じん肺についての文献もいくつか見られるようになり、その中には炭鉱における症例を炭肺として紹介し、炭肺の病理機序及び症状や続発変化、予防法にまで触れているものもあった。

大正時代に入ると、各種鉱山の衛生状態の調査に基づいて、鉱業塵の有害性が指摘されるようになり、大正一三年には、内務省社会局から金属山における「ヨロケ」調査の報告(〈証拠〉)が出され、同一四年には、全日本鉱夫総連合会等から、「ヨロケ=鉱夫の早死はヨロケ病」と題するヨロケの実態等を訴えるパンフレット(〈証拠〉)が出されるなど、このころからヨロケが鉱山衛生上の重大問題として広く認識されるようになった。また、炭肺についても、大正一0年に白川玖治(後の夕張炭鉱病院長)が、北海道の九炭鉱の坑夫の健康状態の調査に基づいた報告(〈証拠〉)を行い、その中で炭鉱病の第一として炭肺を挙げ、炭肺が勤続年数に応じて増加することや、一度罹患すれば坑外に転業させる必要のあることなどを指摘し、南俊治(内務省社会局技師)も、同一五年一一月発行の鉱山衛生の概説書(〈証拠〉)の中で炭肺を取上げ、炭肺が「炭坑労働により吸入した炭塵が漸時肺実質に侵入沈着して生じる」こと、その症状について「軽度の場合は自覚症状を欠くのが普通で、炭塵の沈着がある程度にまで達すると咳嗽、墨汁喀痰、呼吸困難、貧血等の諸症状が現れ、更に進行すると肺気腫に移行することが多く、炭塵の沈着が過度であればついには肺に空洞を生じるに至る」など、今日の炭肺の知見に通じる内容の指摘をしていた。

これらを含むこのころの文献中には、当時、生野、明延、別子らの鉱山で湿式さく岩機が使用されていたことや、ヨロケの予防のためには、通気の改善、さく岩機の湿式化、マスクの支給、労働時間の短縮、定期健康診断の実施、配置転換等が必要であることなどを指摘する記載があった。また、このころすでに防塵マスクの研究が行われていたことを示す文献もあった。

昭和初期には、「石炭時報」(石炭鉱業連合会が発行していた業界誌)に、じん肺に関する内外の情報が適宜掲載された。そのなかには、「最近北海道の石炭山で珪肺患者と認められる者が多数発見された」旨の内容を含む内務省社会局技師大西清治の講演を掲載した第四巻第八号(昭和四年八月発行。〈証拠〉)や、鉱山衛生に関する統計資料を基に、坑夫の呼吸器疾患のひとつとして炭肺をあげ、「石炭坑夫に炭肺の来ることは、余程古くより知られていた事実である」と指摘し、また、最近石炭鉱山においても珪肺が現れたとして、その原因につき岩石堀進により珪酸塵を吸入する機会があるからである旨述べた右大西の論文や、「鉱塵の吸入が漸時呼吸器や消化器を害することは説明するまでもないことで、珪肺や炭肺が坑内就業者に多いことは周知の事実である」旨述べた商工省技師中川信、同原田彦輔の鉱業警察規則六三条の解説が掲載された第五巻三号(昭和五年三月発行。〈証拠〉)などがあった。

更に、昭和五年一0月、有馬英二(北海道帝国大学教授)及び前記白川が日本レントゲン学会雑誌に「炭肺ノレントゲン学的研究」(〈証拠〉)を発表した。この中で有馬・白川は、純炭塵吸入者にも石塵、炭石塵吸入者と質的に区別できない肺の変化が起きること、もっとも純炭塵吸入者は炭肺第一期に止まることが多く、第二期、第三期は例外であること、石塵及び炭塵を混合して吸入した場合は、著しくかつ速やかに比較的高度のじん肺が発生することなどを指摘した。また、昭和六年一0月には、商工省鉱山局が、我が国の鉱業の概況を伝える行政統計資料である「昭和五年本邦鉱業の趨勢」(〈証拠〉はその一部)において、炭鉱でも珪肺患者が二一名、炭肺患者が四名発生していることを報告した。そして昭和一0年には、日本鉱山協会が、鉱山経営者に対するじん肺教育を念頭においた「鉱山衛生講習会講演集」(〈証拠〉)を発行したが、そこには石炭山を含む鉱山における珪肺、炭肺に関する前述のような当時の医学的知見及びじん肺防止対策等が集約して述べられていた。この他にも、動物実験によって炭粉の有害性を証明した研究(〈証拠〉)や、あらゆる粉じんが有害であることを示唆した論稿(〈証拠〉)などがこのころ発表された。

この時期にはじん肺防止に関する工学技術の研究にも進展が見られた。すなわち、乾式さく岩機用の集塵器、さく岩機用給水タンクから圧縮空気で水を吹かす散水装置、戸樋口を密閉し粉じんを集じん装置で吸引する装置など具体的な防じん施設が考案され、また、外国の粉じん抑制装置として、発破面の坑道前面にカーテンを張り発破後カーテン側から発破面に向けて油噴霧を行うことによって粉じんを抑制する方法や発破にかわる水圧石炭破砕器などが紹介された、更に、防じんマスク、粉じん測定方法、粉じん恕限度等の研究にも進展がみられた。

② 〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

戦後になると、じん肺の病理については、基本的には戦前の知見を継承しつつも、じん肺の種類や症状、原因などの研究に深化・発展が見られた。特に石炭山における珪肺の実態調査・研究も進み、その結果、炭鉱でも金属鉱山に劣らず珪肺発生の危険性のあることが一層明らかになった。そして、このような知見をふまえて、職種や作業場ごとの粉じん発生量やじん肺発生率の調査が度々行われるようになり、具体的な粉じん抑制法や粉じん恕限度、じん肺の診断基準などに研究の重点が置かれるようになった。

(2) 行政法令等

じん肺に関する行政法令等の推移は次のとおりである。

① 明治二五年制定の鉱業警察規則(〈証拠〉)が商工省令第二一号により昭和四年一二月に改正(〈証拠〉)され、その六三条において「著しく粉じんを飛散する坑内作業をなす場合においては注水その他粉じん防止の施設をなすべし。但しやむを得ざる場合において適当なる防塵具を備え鉱夫をしてこれを使用せしむるときはこの限りにあらず」と規定されたが、当時発表された商工省技師による同条の解説(〈証拠〉)によれば、右規定は珪肺や炭肺の予防を目的とするものであり、さく岩機や截炭機のような著しく粉じんを飛散させる機械に対しては、さく孔或いは截断面に注水するとか粉じん発散部位に収じん嚢を使用するなどの防塵施設をなすべきで、ただ、機械や作業箇所の状況によりこのような施設を使用できないときは適当な防塵具(マスク)を鉱夫に使用させなければならないことを意味するものとされていた(なお、この点について、被告は右六三条等は主として金属鉱山を念頭に置いたものであった旨主張するけれども、「主として」という限りではそうであったとしても、石炭鉱山をも含むものとされていたことは右に認定したとおりであるから、結局被告の右主張は格別の意味を有しえないことに帰する)。

昭和五年六月には、内務省社会局から鉱夫珪肺扶助に関する通牒(〈証拠〉)が発せられ、これにより、炭鉱を含む鉱山において三年以上就業して珪肺に罹患したときは業務上の疾病と推定し、当該鉱夫に対しては、鉱夫労役扶助規則が適用され、被害補償が行われることになった。

② 昭和二二年に設置された労働省は、昭和二三年七月「珪肺対策協議会」(その後「珪肺対策審議会」となる)を設けるとともに、同年一0月から全国的な珪肺巡回検診を開始し、翌二四年八月には「珪肺措置要綱」を定め、右巡回検診の結果発見された珪肺罹患者の取扱いにつき、保護具の使用、健康管理、労働時間の短縮、珪肺の発生のおそれのある事業所の医師に対する珪肺教育などを実施するよう指示した。

鉱業警察規則を引き継ぐものとして、昭和二四年八月に石炭鉱山保安規則(通商産業省令第三四号、以下「炭則」という)が制定施行され、粉じん防止に関しては、「衝撃式さく岩機によりせん孔するときは、粉じん防止装置を備えなければならない。ただし、防じんマスクを備えたときは、この限りではない。」(二八四条)、「屋内作業場において、著しく粉じんを飛散するときは、そのじん雲により危険を生じないように、当該箇所における粉じんの吸引もしくは排水または機械もしくは装置の密閉等適当な措置を講じなければならない。」(三四七条)と規定された。その後炭則は数次にわたって改正され、珪酸質区域(掘採作業場の岩盤中に遊離珪酸分を多量に含有し、通商産業大臣が指定する区域)における、せん孔前の岩盤等への散水、湿式さく岩機の使用、そのための配水管の設置、発破の際の粉じん曝露回避などが義務付けられた。

昭和三0年七月には、珪肺及び外傷性せき髄障害に関する特別保護法(以下「珪特法」という)が制定公布され、同法及びこれに続く珪肺及び外傷性せき髄障害の療養等に関する臨時措置法(昭和三三年五月七日公布)において、使用者の、粉じん作業に常時従事させる従業員に対する就労時及びその後定期の珪肺健康診断の実施義務、珪肺罹患者に対する配置転換、療養補償等の措置などが定められた。更に、昭和三五年三月に制定されたじん肺法(以下「旧じん肺法」という)は、珪特法同様の健康診断、配置転換、療養補償等の規定を置いたほか、健康管理区分の設定とその決定手続き等を定めたうえ、じん肺の予防に関し、一般的にではあるが、防じん対策及びじん肺教育の実施を義務付けた。

(3) 被告及び長倉炭砿株式会社の負うべき具体的な安全配慮義務の内容

① 前記(1)、(2)の事実によれば、遅くとも昭和一0年ころには、炭肺を含むじん肺に関する医学的知見及びじん肺防止措置に関する考え方が、おおよそ次のような水準に達していたことが認められる。

(あ) 炭塵の吸入により炭肺が発症するが、その症状は軽いことが多い。しかし、炭塵の吸入によっても、石塵を吸入した場合と質的には区別のできない変化が肺に生じるし、炭塵の沈着が過度になれば、肺気腫が起こり、肺に空洞が生ずるなど重大な障害を引き起こす。

(い) 石炭鉱山においても、遊離珪酸塵の吸入の機会がある(岩石掘進、挟みの処理など)以上、珪肺罹患の危険がある。

(う) じん肺の予防法としては、散水、通気の改善、さく岩機の湿式化、集じん装置の使用、発破の際の粉じん曝露回避、マスクの支給、労働時間の短縮、定期健康診断の実施、配置転換、じん肺教育等が考えられる。

(え) 労働者の珪肺撲滅運動や各種実態調査の結果などからじん肺問題に対する関心が高まり、国は、鉱業警察規則の制定や通牒などによって、石炭鉱山についてもじん肺防止及び罹患者の補償などの措置を講じていた。

② ところで、被告は、じん肺の医学的知見に関し、(イ)昭和二0年ころまでのじん肺ことに炭鉱におけるじん肺に関する研究にはみるべきものが少なく、また、(ロ)同二0年から三0年ころまでの間のじん肺についての医学的知見によれば、(a)珪肺は遊離珪酸分を含む粉じんの吸入によって起こるものであるから、石炭鉱山においては岩石掘進により発生する岩粉のみが問題となるところ、炭鉱の岩盤は遊離珪酸分が概ね低率であるから金属鉱山に珪肺はあっても石炭鉱山に珪肺はなく、また、(b)炭粉自体には悪性胸部疾患を起こす作用はない、と考えられており、それ故、(ハ)「炭鉱にヨロケ(珪肺)なし」「炭肺は発症しても軽症である」などと言い慣らわされていたのであり、(ニ)炭則の規定を金属鉱山等保安規則(以下「金則」という)のそれと比較対照し、又、珪特法の規定するところをみれば、旧じん肺法が制定されるまでのこれら行政法令が「岩石に関する作業において発生する粉じんが珪肺の原因をなす」との認識を前提にしていたことは明らかであり、このことも右(a)、(b)の医学的知見が一般的な認識であったことを裏付けているのであるなどと主張する。そして、かって(ハ)のような言い伝えがあったことは実質的に当事者間に争いがなく、また、(イ)、(ロ)についてみれば、〈証拠〉(「珪肺」、昭和三0年発行)には、その「はしがき」に「(戦前の珪肺の研究は)細々としたもので、一般の注目を引くには至らなかった」旨の記載があり、〈証拠〉(「東北医学雑誌」中の「常磐炭礦における公衆衛生学的研究」と題する論文、昭和二四年発行。なお、〈証拠〉はこれと同じものの全部である)には「じん肺ことに珪肺に関する研究は二0世紀初めより特に南アフリカにおいて多数報告せられたが、炭肺に関するものはあまり多くなく、日本においては有馬、白川の報告が唯一のもののようである。」旨の記述がある。更に、〈証拠〉(「けい肺対策の現状および今後の展望」昭和三0年八月発行)には「けい肺については遊離けい酸粉じんがその主要な原因であり、他の粉じんは有害であるとしてもこれを促進するだけの役割しかない。」旨の〈証拠〉(「炭坑読本」昭和二九年発行)には「炭鉱の岩石は鉱山の岩石に較べて一般に遊離珪酸を含むことが少なく、かつ炭鉱では岩石掘進は主要作業でないため、けい肺の問題は従来全く無視されていた」、「又、炭塵肺の問題があるが、純粋の炭塵の吸入は、現在のところ有害なものとは考えられていない。」旨の、〈証拠〉には「過去五ヶ年間の病院統計において、炭肺は僅かに一例(鉱山労務者一000人につき0.0二、呼吸器疾患の0.00九パーセント)を認めたに過ぎない。炭山にヨロケなしと言われる所以である」「今日塵肺の成因に関し、炭末そのもののみの吸入では炭塵の累積は示すが、繊維増殖症の発生即ち真の塵肺は示さないととされている。」旨の各記述が見られるのである。また、前記(2)の②でみた炭則の規定にしても、これを金則の規定と対比しつつ、その制定からその後の数次に亘る改正を辿ってみれば、被告主張のとおり右両者の間には微妙な、或いはむしろ顕著なともいうべき差異を見出すことができるのであって、右は要するに、旧じん肺法が成立をみるまでのこれら行政法令が専ら「岩石に関する作業において発生する粉じん」を問題にしていたということを窺わせるに十分なものがある。この点に関する被告の指摘((ニ)の前段)は正当であるものといわなければならない。

しかしながら、〈証拠〉中の戦前における珪肺ないしは炭肺に関する研究状況についての各記載は、既に認定したところ(前記(1)の①)に照らしてた易く首肯し難く、右各著者らの多分に主観的な認識を明らかにしたにとどまるものというべきである。また、「炭坑読本」(〈証拠〉)の著者である兵庫信一郎は、〈証拠〉によれば、三菱鉱業株式会社の役員等を歴任した、当時のわが国石炭業界における技術指導者の一人であったことが認められるが、右〈証拠〉の前記抜粋部分はそのような著者の記述としてはいささか専門分野外に亘るものと思われるのであって、それ程重きを置くことはできない。もっとも、〈証拠〉については、崎戸礦業所衛生管理課の御厨医師の校閲を受けたことが、〈証拠〉中のその旨の記載から認められるのであり、右御厨医師とは昭和三四年五月に発行された「民族衛生」二五巻三号に「炭鉱における防じん対策の研究」(〈証拠〉)と題する論文を発表した御厨潔人医師と同一人物であろうと推認されるところ、同医師は右論文の冒頭において「わが国の炭鉱では母岩中遊離けい酸の多い山を除いて、一九五五年けい肺保護法施行以前は炭肺は発生してもけい肺は発生しないと信ぜられていた。そしてけい肺といえばシリカ濃度高い粉じん作業に発生する典型的けい肺が考えられ、炭肺はけい肺と違って労働能力にたいした障害を与えないものと軽視されていた」と述べている。しかし、〈証拠〉中には「炭砿においても長く岩石坑道の掘進に従事する時は、けい肺にかかることが確認された」という記述もあり、しかも、兵庫信一郎は昭和三二年一0月に発行された炭坑読本の改訂版(〈証拠〉)においては、「炭坑においてはケイ肺はないと考えていたのは、文字通り不覚であったというべきである。炭坑においてもケイ肺は存在する」と記述し、同人の従前の認識を根本的に改めていることが明らかである。また、御厨医師が従来の認識を変更させる契機になったという珪特法にしても、戦後の珪肺撲滅運動などを経て漸く成立をみたものであることが明らかであるから、そのような動向に関心をもっていた専門家であるならば、前記の記述にあるような認識にとどまっていたということはいささか理解に苦しむものがある。次に、〈証拠〉は鉱山保安局によって著されたものであるから、これが先にみた行政法令等の拠って立つところと前提を同じくするのは蓋し当然のことであって、前記抜粋部分にそれ以上の格別の意義を見出すことはできない。しかも、同号証中には、右部分の前提として「有害粉じんの定義について現在までわかっていることは次のとおりである」という記載があるところからしても、当時の科学(医学)水準に基づいて確実に認められるところを記述したにとどまるものと理解されるのである。更に、〈証拠〉の問題の抜粋部分についていえば、同号証の論文の共同執筆者として名前を連ねている東北大学医学部大里内科教室の医学者八名のうち、指導的立場にあるのが中村隆東北大学医学部教授であり、同教授は後に「じん肺審議会」の会長を務めるなどした斯界の権威とも評すべき学者であることは〈証拠〉によって認められるところであるが、右〈証拠〉中には前記抜粋部分に続いて「しかしながら、石炭はその成因上成分として多少の珪酸を含む以上、微量とはいえこれを永く持続吸入する時、たとえ軽度ながら珪肺発生は考えられ、ことに炭塵以外砂岩、頁岩等の粉じん吸入の機会あるにおいては尚更である」と記述されているのであり、しかも、〈証拠〉によれば、同教授は昭和二八年八月二六日に常磐炭鉱浅貝保養所で開催された「第八回礦山医学研究発表会」の席上、「私は昭和二一年に当地に来て結核の集団検診をした際に、どうも結核と違う肺の疾患があることに気付いた。それが大体坑内労働者の一パーセント位である。昔から炭山にヨロケなしと言われる位、炭山では余り問題にならなかったが、珪肺があるようだということはひそかに考えていた」と発言していることが認められ、これらの点を併せ考えるならば前記抜粋部分の信用性は必ずしも高くないものといわなければならない。

このように見てくると、被告の前記主張に沿うものとされる〈証拠〉中の各記述は必ずしもその表現どおりには受けとることができないものであったり、独自の意義がないものであったりして、概してその証拠価値はそれ程大きいものではないということがわかる。また、炭則等の行政法令についていえば、この点に関する被告の指摘は正当ではあるが、だからといって、これにより被告の主張する(ロ)の(a)、(b)のような医学的知見が裏付けられているもの((二)の後段)とは速断できない。そもそもこの種行政法令はそれが制定された当時の社会・経済上の諸事情はもとより、時には労働側と経営側のせめぎ合い等の政治・経済的な力関係も大きな影響を及ぼすことがあるなど、多種多様な要素が複雑に絡み合って決定されるものであるから、その時期の社会情勢や認識をそれなりに反映するものであることは勿論であるが、それ以上にこれこそが正しい尺度であるなどとすることはできない。むしろ、この種行政法令は確実性を重んずるところから、往々にして最低限度の基準として定められる場合が多く、したがって、行政法令の要求する基準すら満たしていないというのではおよそ問題にならないが、これを遵守していさえすれば何ら問題がないというものではないのである。それ故、労働者を雇用する側に課される安全配慮義務を考える際においても、使用者にあっては、関係行政法令の規定するところを遵守すべきことはいうまでもないが、それで事足れりとするのではなく、更に進んで入手可能な情報に接するなどして、その時期に応じたより高度の安全配慮義務を尽くすことが求められるものといわなければならない。また、(ハ)の言い伝えは、炭鉱にも岩石掘進や挟みの処理作業など岩石粉じんを吸入する機会があるという一事からしても到底これを重視することはできない。

以上検討したところを踏まえて、(1)で認定した事実、すなわち、戦前においても炭肺を含むじん肺に関する相当多くの研究が既に公表されていたこと、又、仮に炭鉱の岩盤の遊離珪酸分が概ね低率であるとしても、そのことから直ちに石炭鉱山においては珪肺がないとまではいえないことが、昭和初期に行われた各種実態調査によって明らかにされていたこと、更に、炭粉が無害であるとの説がある一方、これを大量に吸入すれば有害であるとする説も有力に主張されていたことなどを見れば、(イ)のようにいうことは決してできず、(ロ)もいささか一面的な理解であるとの感を否めない。また、(ハ)の言い伝えは合理的な根拠を欠いたものという外はなく、(ニ)については、一定の根拠があることは認められるものの、だからといってこれを絶対的に重視するのは相当ではないものといわざるを得ないのである。

以上によれば、被告の主張及びその指摘する証拠をもって右(あ)ないし(え)の認定を妨げることはできず、他に右認定を覆すに足る証拠はないものといってよい。

③ そして、前記(1)で認定したところ、就中、「石炭時報」については、その性格上、被告も当然これを入手していたものと推認されるのであって、これらの事実によれば、被告において右①の(あ)ないし(え)の各事実を認識することは十分に可能であったことが認められる。

④  以上の事実に前記第二で認定した事実を総合すれば、被告は遅くとも昭和一0年以降、次のようなじん肺防止対策をとる義務があったというべきである。

(あ)  岩石掘進のみならず、石炭掘進及び採炭においても、さく孔作業をする場合は原則として湿式さく岩機を使用すべきであった。

(い)  各作業前には作業現場周辺に散水し、作業中も適宜発じん個所に散水すべきであった。

(う)  発生した粉じんが作業現場付近に滞留することがないよう、適切な通気を確保すべきであった。

(え)  作業員に適切な防じんマスクを支給し、作業の際これを装着するよう指導、監督するべきであった。

(お)  発破の際の粉じん曝露を回避するために、粉じんが希釈されるまで作業員が現場に立ち入らないように指導し、また、できる限り積込みで始まって発破で終わる「掛け上がり発破」や昼食直前に発破をかける「昼食時発破」を行わせるべきであった。

(か)  作業員にじん肺の原因、症状、予防方法及びじん肺罹患者に対する補償制度などを分かりやすく説明し、じん肺防止対策の重要性を認識させるべきであった。

(き)  じん肺健康診断を定期的に実施し、その結果を作業員に通知するとともに、じん肺罹患者に対しては、配置転換その他の適切な指導及び措置をとるべきであった。

⑤ なお、以上検討したところは、長倉炭砿株式会社についてもほぼ同様のことがいえるものと考えられる。

2  安全配慮義務の不履行

(被告会社関係)

(一) 湿式さく岩機の使用

〈証拠〉によれば、次の各事実が認められる。

被告は、昭和三一年九月に湿式さく岩機を導入したが、それまでは、全砿において湿式さく岩機を全く使用していなかった。また、これ以降も湿式さく岩機は岩石掘進においてのみ使用し、石炭掘進及び採炭においては、乾式さく岩機を使用するか、湿式さく岩機を乾式として使用していた。

被告が当初導入した湿式さく岩機は、古河足尾製作所製のASD二二型であったが、昭和三四年ころからはこれに改良を加えたASD三二二型も使用するようになった。これらはいずれも乾式でも湿式でも使える両用型であった。

被告は、昭和三一年九月の湯本六坑を皮きりに順次各砿において湿式化を進め、昭和三三年ころには、ほぼ全砿の岩石掘進切羽に湿式さく岩機を配備し、乾式での使用について鉱山保安監督局の許可を得た切羽を除き、湿式で使用することとした。しかし、被告の作業員に対する湿式使用の指導が不十分であったため、現場では乾式として使用されることも多かった。

(二) 散水の実施

〈証拠〉を総合すれば、次の各事実が認められる。

(1) 岩石掘進における散水

被告は戦前から鮫川、好間川などに水利権を取得して各坑への給水を確保し、概ね各坑の各切羽の切羽元ないしは最終目抜まで水管を張り巡らせていた(もっとも、住吉一坑のように全く水管のない坑もあった)。しかし、被告においてじん肺防止を意識しての散水を始めたのは昭和三二年ころからであり、したがって炭塵爆発の恐れのない岩石掘進切羽においては、散水をすると空気が加湿したり被服が濡れたりして坑内作業者に不快感を与え作業能率が低下することから、それまで殆ど散水は行われなかった。

昭和三二年ころからは、岩石掘進切羽においても、発破の前後やズリ積み時などにホース散水が行われるようになったが、住吉本坑のように散水の行われなかった坑もあり、散水の行われた坑においても、指導が徹底せず、散水の実態は不十分であった。

(2) 石炭掘進及び採炭における散水

被告は昭和二0年ころから(戦前における散水の実態は不明である)、炭塵爆発防止のため、その恐れのある切羽を散水指定切羽とし、発破前の散水を励行することとし、また、昭和二六年には、保安規定で散水指定切羽においては発破前後に散水すること、著しく粉じんの飛揚する運搬坑道においては湿潤地帯を作ることなどを定め、これに従って散水を実施した。しかし、これ以外の切羽では散水を実施せず、また、採炭については、天盤崩落の危険のあることから切羽面には散水せず、当初は切羽のコンベアから下添坑道のコンベアの落口で噴霧散水を実施する程度で、その後徐々にコンベアーや炭車の積替口、上添坑道への出口などで噴霧散水を実施したにすぎなかった。

ドラムカッター採炭の場合は、カッター運転中、ドラムに内蔵された散水器によりドラムの切截部に散水し、その際ホーシーという界面活性剤を混入して炭塵の抑制を図ったが、それでもドラムカッターによる発じんを抑えるには不十分であった。また、高圧炭壁注水は試験的に実施しただけで、実用化されなかった。

被告の散水に関する指導は専ら炭塵爆発の防止を念頭に置いたもので、じん肺防止のための散水の意義や効果についての教育は極めて不十分であった。

(3) その他の作業における散水

仕繰作業においては散水はなされなかった。

運搬作業においては、炭ポケット及びチップラーの周辺等に散水していた。

(三) 通気の確保

〈証拠〉を総合すれば、次の各事実が認められる。

(1) 被告は、有効風量を増大させて坑内温度の低下を図り、同時に入出坑時間を短縮するため、大正一一年から昭和四四年までに、湯本砿一0本、鹿島砿四本、内郷砿二本、磐崎砿七本合計二三本(うち入気立坑六本、排気立坑一七本)の通気立坑を開さくし、各排気立坑に主要扇風機(全砿の主要扇風機の総馬力は、昭和二二年度で三三五0馬力、昭和三六年度で四九五0馬力、昭和四四年度で八000馬力である)を備え、吸い出し式の強制通気を行った。この結果、被告炭鉱における坑内通気の総風量は、昭和二二年毎分三万七000立法メートル、同三六年四万七七00立法メートル、同四四年六万四五00立法メートルと増大し、一応主要通気としては十分な風量が確保された。

また、掘進切羽等への局部通気については、吹き出し式の局部扇風機と風管を用いての強制通気を行った。局部扇風機は、昭和二二年には六馬力、同三六年には三0馬力、同四四年には八0馬力と徐々に馬力の大きいものを使うようになり、これに応じて吹き出し風量も、昭和二二年毎分五0立法メートル、同三六年毎分二00立法メートル、同四四年毎分四00立法メートルと増加した。また風管は、昭和三0年までは鉄製であったが、漏風が多いので、同三一年よりナイロン製風管を使用するようになった。

(2) このように被告は、坑内通気を確保するため、一応の諸設備を整えていたが、被告における坑内通気の目的は主として坑内温度の低下にあったから、特に防じん対策を意識しての通気管理は行われず、防じん対策としては次のような不備があった。

① 長壁式採炭切羽においては、払い跡の全充填が行われるようになった昭和四二年ころまでは、払い跡への漏風が激しく、払いの入口から中央、出口と行くに従って風量が格段に低下した。このため払いの出口に近い所ほど、通気による粉じん除去の効果が小さかった。

② 掘進切羽への通気は前記のとおり局部扇風機と風管によって行われていたが、局部扇風機の設置される最終目抜付近(通常は最終目抜より五ないし一0メートル入気側)から掘進切羽までの距離が長くなるにつれ風管を通じて流れる風の力が弱まった。ことに急速掘進の際には、この距離が一五0メートルにも及ぶことがあったので、そのような場合には切羽は殆ど無風状態になった。

③ 風管の延長は本来機電係の仕事であったが、人手が足りないなどのため、切羽の進行に応じて適切に風管の延長がなされない場合があった(このため掘進作業を行う一般坑夫がこれを行なわざるを得ない場合も多かった)。また、保安規定では切羽面から七メートルのところまで風管を延長しなければならなかったが、ロッカーショベル導入後はその邪魔にならないよう、切羽から一0ないし一五メートルのところまでしか延長されない場合があった。これらの場合切羽は殆ど無風状態となった。

④ 局部扇風機の設置位置が不適切な場合などに、車風(局部扇風機から風管を通して一度使用した空気の全部または一部が、再びもとの局部扇風機に吸い込まれて、その局部を循環する状態)となることがあった。また、車風にならなくても、切羽後方で作業している者は切羽で発生した粉じんに曝された。これを防ぐには二局通気法(切羽に吹き込み式風管により清浄な空気を送るとともに、吸い出し式風管により切羽の汚染された空気を直ちに排除するというもの)が効果的であったが、被告はこれを採用しなかった。

⑤ 採炭切羽の払い面での作業の場合、風下側(上添側)で作業する者は、当然に風上側(下添側)の作業によって発生した粉じんに曝されることになるので、少なくとも著しい発じん作業が行われる場合はその風下側では作業をさせないことが必要であるのに、被告会社炭鉱においては、ドラムカッター稼働時でさえその風下で作業の行われる場合があった。

(四) 防じんマスクの支給

〈証拠〉を総合すれば、次の各事実が認められる。

(1) 被告は、各種防じんマスクの試験使用を開始した昭和三二年ころまでは、全く作業員に防じんマスクを支給しなかった。

被告は、右試験使用の結果同三四年一0月、重松製作所製TS式DR二二K型を正式機種として採用し、同三五年五月より作業員が防じんマスクを購入する場合被告がその半額を負担することとし、次いで同三六年一月からは無償でこれを貸与することとした。しかし、貸与の個数については明確な定めがなく、現に防じんマスクの貸与を受けたのは坑内作業員の一部にすぎなかった。

(2) 被告の採用した重松製作所製TS式DR二二K型防じんマスクは、濾じん効率六七パーセント、通気抵抗一・五ミリメートル、重量二八グラムというものであったが、濾じん効率が低いため、昭和三七年六月のJIS規格の改正により検定不合格品となった。労働衛生保護具検定規則によれば、鉱物性粉じんの発生する事業場においては国家検定に合格した防じんマスク以外は使用してはならないこととされていたにもかかわらず、被告は検定不合格となった後も昭和五一年の閉山に至るまで漫然と右重松製作所製TS式DR二二K型防じんマスクの貸与を続けた。

(3) 被告においては、貸与したマスクの手入れや交換、保管、管理についての特別の体制はとられておらず、これらは全て貸与を受けた各作業員に任されていた。

(4) 被告会社炭鉱の各坑の坑内温度は概ね三0度以上で湿度も高く、作業内容によっては常時マスクを着用することが困難な状況にあった。また、じん肺防止のためのマスク着用の意義についての教育も極めて不十分であった。このためマスクを貸与されても、これを装着しない作業員も多く、現場の作業員を指導する立場にある係員にさえマスクを着用しない者があった。

(五) 発破の際の粉じん曝露回避

発破の際、作業員は、切羽元から三0ないし五0メートル位離れた個所に退避するのが普通であったが、発破後まもなく切羽に戻って作業を開始する場合が多かったことは前記第二、一3で認定したとおりであり、〈証拠〉によれば、「掛け上がり発破」が行われたことのあるのは岩石掘進の場合だけであり、しかも、岩石掘進においては一方の賃金が延び高によって決められていたため、その計算上さく孔で始まって枠入れで終わる「切付け掘り」が原則であったから、「掛け上がり発破」が行われたのは高温対策上その他の理由によりやむを得ない場合などの例外的な場合にすぎなかったこと、昼食直前に発破をかけ、十分な昼食時間をとり、発破による粉じんが沈降してから作業を開始する「昼食時発破」は行われていなかったことが認められ、〈証拠〉中右認定に反する部分はにわかに措信し難く、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。もっとも、〈証拠〉によれば、昭和四0年ころからではあるが、発破孔に爆薬を装填した後の込め物として、従来の砂などに替えてビニール袋に水を詰めた物(水タンパー)が一部で使用されるようになり、これを使用した場合は発破による粉じんの発生量が相当減少したことが認められる。

(六) じん肺教育

湿式さく岩機の使用、散水、防じんマスクの着用についての被告の指導、教育が不十分であったことは前記のとおりであり、〈証拠〉によれば、被告会社におけるその余のじん肺教育の実態は次の如きものであったことが認められる。

(1) 被告は、昭和三一年二月から翌三二年二月にかけて行った珪肺検診の結果、被告会社炭鉱において多数の珪肺患者が発見されるまで、じん肺防止の重要性を認識していなかったから、そのころまでは、一般鉱員に対するじん肺教育を全く実施していなかった。

(2) 被告は昭和三一年五月に被告独自の教育機関である保安教育講習所を設け、同月から昭和三九年一0月までの間に一六期にわたり、一般鉱員の指導・教育にあたるべき係員を対象に保安教育を行い、この中でじん肺問題を取上げ、じん肺の病理、予防方法などについての教育を行った。これにより、係員は概ねじん肺に関する知識を有するに至ったが、係員から一般鉱員に対してこれらの知識が正確に徹底して伝えられたとはいえない。すなわち、被告は、戦前から一般鉱員に対する保安教育を、「五分間教育」(現場の係員が、毎日自己の部下に対して坑内詰所で番割前に五分間教育するというもの)によって行っていたが、そこでは主として災害事例をもとにした安全上の注意が行われていたにすぎず、じん肺問題は軽視されていた(被告は、係員による「五分間教育」の内容を統一するため、昭和三二年四月被告会社磐城砿業所保安部作成の「五分間教育の手引」を発行したが、七0頁に及ぶ右手引のうち、じん肺についての記述は僅か一頁にすぎず、その内容も極めて簡略なものであった)。

(3) 被告は、講師を呼んでじん肺問題についての講演会を開いたり、社内新聞紙上にじん肺に関する記事を掲載したり、坑口において、防じんマスクの着用を呼び掛ける放送を行ったりしたが、いずれも散発的なもので一般鉱員に対する教育効果は小さく、じん肺防止の重要性を認識させ得るものではなかった。

(七) じん肺健康診断、配置転換等

〈証拠〉を総合すれば、次の各事実が認められる。

(1) 一般健康診断

被告は、昭和二四年から、労働基準法に従い全従業員を対象とし、坑内作業従事者に対しては毎年二回、その他の者に対しては毎年一回、一般健康診断を実施した。しかし、右健康診断は、肺機能検査を含まず、X線撮影も間接撮影を基本としていたから(坑内作業員にして勤続八年以上の者及び結核の有所見者についてのみ直接撮影)、これによりじん肺患者ことに初期のそれを発見することは困難であった。

(2) じん肺健康診断

被告会社炭鉱においてじん肺健康診断が行われたのは、昭和二五年一一月の労働省の珪肺巡回検診が最初であった。この検診に基づき再検査を行った結果五名のじん肺患者(いずれも症度一)が発見された。

被告が自らじん肺健康診断を始めたのは、昭和三0年珪特法が施行され、使用者に、粉じん作業に常時従事させる従業員に対する就労時及びその後定期の珪肺健康診断が義務付けられてからであった。被告は、珪特法及びその後の旧じん肺法にしたがい、昭和三一年から、坑内作業に従事する者でじん肺の所見のない者に対しては三年に一回、珪肺第二症度以上(旧じん肺法施行後は管理二以上)の者に対しては毎年一回じん肺健康診断を実施し、また、粉じん職歴のある新規採用者に対してもじん肺健康診断を実施した。

ちなみに、昭和三一年度のじん肺健康診断の結果は、被検者四五三0名中、第一症度八六八名、第二症度三四名、第三症度一五名、第四症度一二名、罹患率九.四七パーセントであった。

(3) 診断結果の通知

被告は、右じん肺健康診断の結果につき労働基準局長から通知のあったときは、これを文書で各本人に通知していた。しかし、右通知の際の当該罹患者に対する注意は、単に「病勢の悪化の防止を図るため平常健康に御注意下さい」という程度のものであり、じん肺教育としては極めて不十分であった。

(4) 配置転換

被告は、珪特法に従い、昭和三0年一0月以降、労働基準局長から作業転換の勧告があった者(珪肺第二ないし第三症度の者)に対して、粉じん作業以外の作業につくよう勧奨し、これに応じた者については、転換手当として、直接夫から坑外夫に転換した場合は転換時本人平均賃金の八0日分、直接夫から間接夫に転換した場合は同四0日分、間接夫から坑外夫に転換した場合は同三0日分をそれぞれ一回限り支給することとした(昭和四四年以降の転換手当は右各区分に応じてそれぞれ九0日、六0日、四0日分)。

しかし、坑内作業員から坑外作業員に転換すると賃金が極端に減少したので、右の程度の転換手当によっては到底これを補うことができず、被告の配置転換の勧めに応じる者は少なかった。

(八)  右(一)ないし(七)の事実によれば、被告は、炭塵爆発防止のための散水、温度低下等のための通気確保の措置を行ったほかは、昭和一0年以降同三一年ころまで何らじん肺防止対策を実施せず、昭和三一年ころ多数のじん肺患者の発生を見て初めてじん肺防止の必要性を認識し、それ以後一応のじん肺防止対策を立ててこれを実施したものの、多くは炭則、珪特法等の法令上要求される措置の域を出なかったばかりか、その実施状況も、湿式さく岩機の使用については採炭現場では全く使用せず、散水、通気については改善すべき点が多くあったのにこれを放置し、防じんマスクについては検定不合格品を漫然と貸与し、じん肺教育その他のじん肺防止対策についても消極的な対応に終始するなど極めて不十分なものであったという外ないから、被告は1(三)(3)で認定した安全配慮義務を尽くしたものということは到底できない。

(長倉炭砿株式会社関係)

〈証拠〉によれば、同人が右会社に在職していた期間中、少なくとも同人が稼働していた作業現場においては湿式さく岩機は使用されず、又、散水は殆ど実施されていなかったこと、同人は昭和三六年初めころに至って同会社から前記DR二二K型防じんマスクの支給を受けたこと、同会社におけるじん肺教育も前記(六)で認定した被告会社におけるそれとほぼ同様であったことが認められ、〈証拠〉によれば長倉炭砿株式会社においても前記(七)(1)で認定したと同様の一般健康診断が行われていたことを認めることができる。なお、その余の関係においては、右会社の安全配慮義務の履行状況を判断するに足る適切な証拠を見出し難いのであるが、右にみた関係についてはいずれも被告会社のそれの域を出ないか、又はそれを下回る水準のものばかりであること、長倉炭砿株式会社は被告会社と比較すれば格段に小規模な炭鉱であったこと、その他弁論の全趣旨をも併せ考えれば、長倉炭砿株式会社の右履行状況が全体として被告会社のそれを決して上回るものではなかったであろうことは十分推認されるところである。

そうすると、同会社も又、前記安全配慮義務を尽くさなかったものといわなければならない。

3  因果関係

前記第四、二のとおり、原告ら元従業員はいずれも被告会社(渡部岩三郎については長倉炭砿株式会社)における粉じん作業によって粉じんに曝露し、これを吸入してじん肺に罹患し、又その症状を増悪させたことが認められるから、この事実に原告ら元従業員の被告会社及び長倉炭砿株式会社における作業歴と右2の安全配慮義務違反の態様を併せ考えれば、昭和一0年以降の被告及び長倉炭砿株式会社の安全配慮義務違反と原告ら元従業員のじん肺罹患及びその症状の増悪との間に相当因果関係のあることは明らかである。

4  有責性が存在しない旨の抗弁について

被告は原告ら元従業員がじん肺に罹患することが予見不可能であった(昭和二七、八年ころまではおよそ一般的に不可能であり、その後においても具体的には不可能であったとするものの如くである)、ないしは右じん肺防止対策を完全に実施することについては期待可能性がなかったと主張するので、右主張につき便宜ここで判断するに、前記1(三)(1)で認定したじん肺特に炭鉱夫じん肺についての知見及びじん肺防止に関する工学技術水準によれば、昭和一0年ころまでには、石炭鉱山においても珪肺ないし炭肺が発生するとの知見が得られ、当時既にその防止対策として前記1(三)(3)において安全配慮義務の内容として指摘した各措置が考案されていたのであり、右各措置はいずれも十分実施可能なものであったといわなければならない。

これに対し被告は、(イ)石炭産業が戦前・戦後を通じて置かれていた立場や、採算を度外視することのできない一般企業としての制約などを指摘し、或いはこれに関連して、(ロ)じん肺防止のための工学技術水準に関し、石炭鉱山において実用に耐えうる湿式さく岩機は昭和三0年ころまで存在せず、また、被告会社炭鉱のような高温・多湿の坑内環境のもとでも使用できるマスクが開発されたのは昭和三二年ころになってからである、などとも主張する。

しかし、被告が(イ)でいうような制約ないし困難があったことは十分理解できるところではあるが、生命侵害や健康被害が問題とされている本件のような事案にあっては、(イ)はそもそも被告の責任を否定するための正当な主張たりえないものというべきである。

次に、(ロ)についてみれば、なるほど〈証拠〉(「炭砿工学」、昭和二四年発行)には「湿式さく岩機は構造が複雑となるため炭鉱においては広く用いられていない。」旨の、〈証拠〉(「労働と健康の戦後史」、昭和五九年発行)には「昭和二七年現在、石炭鉱山はジャックハンマーが殆どなので三.九パーセントしか湿式化されていない。」旨の各記載があるが、右各記載は、石炭鉱山における湿式さく岩機の普及の程度を述べたものにすぎず、石炭鉱山において実用に耐えうる湿式さく岩機が開発されていなかったことを裏付けるものではない。また、防じんマスクについても、〈証拠〉によれば、昭和二三年一0月ころには労働衛生保護具協会が防じんマスクの規格化を検討していたことが認められるのであって、これによれば当時すでに各種の防じんマスクが存在していたことが窺われるうえ、〈証拠〉によれば、昭和三0年の国家検定合格防じんマスクのうちにも高温・多湿の坑内条件下でも使用可能と考えられる防じんマスクが数種類は含まれていたことが認められるから、被告の右主張に一理あることは否めないとしても、これをそのまま採用することはできない。

そうすると、被告の有責性不存在の抗弁は結局採用することができないというに帰する。

5  まとめ

以上によれば、被告は、被告の安全配慮義務の不履行によって原告ら元従業員が被った損害を賠償すべき義務がある。また、右同様に長倉炭砿株式会社は原告渡部岩三郎が被った損害を賠償すべき責任があるところ、同社がその後被告会社に吸収合併されたことにより、被告において右義務を承継したものということができる。

二不法行為責任

前記一において認定したところによれば、被告は、昭和一0年ころから同三一年ころまでの間においては、被告会社炭鉱においてじん肺の発生することを予見し、前記の具体的安全配慮義務を尽くすことによってその発生を防止しえたのであるから、右義務を尽くすべきであったのに、炭塵爆発防止等のために実施した散水や強制通気が結果として右義務の一部の履行となったほかは基本的には何らのじん肺防止措置を講ぜず、昭和三二年ころ以降同五一年の閉山までの間は、右安全配慮義務を履行しない限り被告会社炭鉱において一定割合のじん肺患者が確実に発生することを認識しながら、極めて不十分な措置しかとらず、じん肺患者の発生を容認していたものといわれてもしかたのない状況であること、被告の右のような過失または故意(結果発生の未必的認容)と原告ら元従業員のじん肺罹患及びその症状の増悪との間には相当因果関係のあることが認められる。

したがって、被告は、被告の右不法行為によって原告ら元従業員が被った損害を賠償すべき義務がある。なお、右同様に、長倉炭砿株式会社も原告渡部岩三郎に対する損害賠償義務を負うものであるが、同社を吸収合併したことにより被告会社が右義務を承継したことは、前記一5において、述べたところと同様である。

第六損害

一慰藉料

1  一般に、生命侵害や健康被害が認められる場合の損害を算定する方法としては、逸失利益と慰籍料が二本の大きな柱になるのが通常であるが、いわゆる公害訴訟とか本件のような大量的な労災訴訟などにおいては「包括一律請求」がなされることも珍しいことではない。現に、本件においても、原告らは当初そのような考え方に基づいて、原告ら元従業員一人につき一律三000万円の損害賠償とその一割相当の弁護士費用の請求をなしていたところ、審理の途中において、右金額自体に変更はないものの、これは慰藉料の請求であるとして、その構成を変更したのである。しかも、その際、原告らは本訴で請求するものの外は別途名目の如何を問わずおよそ被告に対して損害賠償請求をすることはしない旨を明らかにしている。そうすると、結局、原告らは前記二本の柱のうちの慰藉料のみを請求するということに帰し、その意味において、原告らの本訴請求はそれ自体限定的で抑制的なものであるということができる。したがって、以下において具体的に慰藉料額を算定するに当たっては、まずこの点を考慮してかからなければならない。

しかし、このようにいうことは、右慰藉料の中に実質的には逸失利益をもある程度取り込むことにもなりかねないから、その反面において、原告らが保険給付を受けているという事実(特に、労災保険給付の既受給分)も又重要な要素として考慮することとするのが相当である。

2  ところで、本件における慰藉料額を具体的に算定するに当たり、まず考慮すべき重要な要素が、原告ら元従業員が罹患していたじん肺による健康被害の程度(その具体的な内容は、各人のじん肺の症状及びそれにより苦しめられた期間によって決まることになろう)であることは多言を要しない。また、その外に考慮すべき要素としては、既に認定した被告の債務不履行ないし不法行為の態様及び程度、原告ら元従業員の被告会社における稼働期間等があり、更には本訴に対する被告の応訴態度など(本訴提起後においても、被告がその損害賠償責任を徹頭徹尾争うなどしたため、結果的には、被害者の早期救済という、社会的・人道的な要請に背を向け続けているといわれても仕方のない状況に立ち至っていることなどの諸事情)も無視することはできないであろう。

3  そこで、以下において、まず原告ら元従業員の健康被害の程度についてみることにする。

(一) 原告ら元従業員の各生年月日が別紙八原告ら元従業員のじん肺による症状経過等一覧表の該当欄記載のとおりであることについては当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、原告ら元従業員のじん肺の自覚症状の発現時期、じん肺に関する行政決定の経過、入院歴、口頭弁論終始時又は死亡時の症状並びに死亡者の死亡時の年令及び死因が、右別紙八の各該当欄記載のとおりであること、原告ら元従業員は、その症状の程度による差はあるものの、いずれもじん肺の症状(咳・痰・呼吸困難、心悸亢進など)のために、日々激しい肉体的苦痛に苛まれるとともに、思うように外出できず、入浴を制限され、排泄行為に不自由をきたし、眠る時に一定の姿勢をとることを余儀なくされ、食事や嗜好品に制約を受け、性生活にも障害をきたすなど日常生活上重大な制約を受けてきたこと、原告ら元従業員のうち大多数の者は、じん肺による労働能力の低下・喪失により経済的に苦しい生活を余儀なくされた期間があったこと、原告ら元従業員はいずれも不可逆性・進行性というじん肺の特質から、じん肺による死を予期して予後に絶望感を抱き、また、日常生活上の制約から趣味を持つことや旅行をすることなどの楽しみも奪われて無味乾燥の生活を強いられるなど精神的にも多大の苦痛を被ったこと、原告ら元従業員本人のみならず、その看護に追われる家族の肉体的・精神的負担も極めて重いものであったこと、以上の事実が認められる。

(二) 原告ら元従業員の健康被害の個別・具体的な事情は右にみたとおりであるが、当裁判所は、これらの認定事実を踏まえたうえでなお、慰藉料額を算定するに際しての健康被害の程度を計る基準としては、旧じん肺法上の健康管理区分又は現行じん肺法上のじん肺管理区分をもってその指標とするのが相当であるものと考える。何故なら、右各管理区分はあくまで行政上の健康管理のための区分という性格づけのものではあるが、同時にじん肺患者の健康被害の程度を客観的に示す役割をも果たしうるものであることは明らかであるうえ、公定の診断方法等に基づいて専門医が診断したところにより、行政機関が慎重に決定したものであるから信用性も高いものと評価しうるからである。

なお、ここで旧じん肺法の健康管理区分と現行じん肺法におけるじん肺管理区分との関係ないしは異同について付言しておくに、両者は重要な点において差異があり、特に、前者においてはエックス線写真の像の型の如何に拘わらず「活動性の肺結核があると認められるもの」については管理四とされているのに対し、後者においてはこのようなものは管理四から除外されているのであるから、厳密な意味では、旧じん肺法下の健康管理区分により管理四と決定された者であっても、必ずしも現行じん肺法下のじん肺管理区分の管理四に該当するとは限らないものといわなければならない。しかし、右改正に伴う経過措置として、旧じん肺法下の健康管理区分による管理四は、現行じん肺法下のじん肺管理区分により管理四とみなす(労働安全衛生法及びじん肺法の一部を改正する法律の一部の施行に伴う経過措置及び関係政令の整備に関する政令第二条二項)ものとされているのであるから、当裁判所も又この点についてこれ以上立ち入ることなく、右経過措置に従って取り扱うものとする。

(三) 以上、当裁判所のこの点に関する基本的な考え方を明らかにしたわけであるが、じん肺被害についてはなお進行性という特質を無視することができない。すなわち、現在管理二或いは管理三である者といえども、断定することはできないが、将来管理四にまで至る可能性が相当程度あることを否定し去るわけにはいかないのであって、その意味では、管理二、三の者の本訴請求は右の可能性を残していることを踏まえたうえでのいわば一部請求のような性格を有するものともいうことができ、この点に鑑れば、右管理区分により余り極端な差別を設けるのはやはり適当なこととはいえない。

また、じん肺に罹患したことが直接ないしは重要な原因となって死亡したものと認められる原告ら元従業員については、その管理区分の如何に拘らず、最大の被害が生じたものとして取り扱うのが相当である(但し、これらの者が死亡するまでの損害については、前記(二)のとおり、あくまでその管理区分を基準にして考えるべきこととなるのは当然である。)。既に死亡した原告ら元従業員のうち、小山武及び鈴木民之進を除くその余の者についてはその各死因に照らして右のとおり認められるものといってよいが、小山武の死因である悪液質の原因は膀胱癌の再発であって、じん肺との関連性は必ずしも判然とせず、また、鈴木民之進の脳出血についても、その原因は脳動脈硬化症であって、同人が死亡時既に七五歳と比較的高齢に達していたことをも考慮すると、むしろ加齢による一般的な成人病としてのそれではないかと考える方が妥当であろう。もっとも、前記第四、一3(二)においてみたとおり、近時、じん肺を全身性疾患として捉え、じん肺罹患と各種臓器の悪性腫瘍や動脈硬化症などの血管障害との関連性を承認する考え方も見られるのであり、これによれば、右両名についても、その死亡とじん肺罹患との因果関係を認めるべきこととなろうが、当裁判所は、未だ右の指摘は学界において確たる支持を受けるまでには至っていないものと考えるので、これに従うことはしない。

4  次に、原告ら元従業員の被告会社における稼働期間をみるに、武田直次郎、溝井助吉、渡邊三郎、渡部岩三郎、平澤景和を除くその余の者については概して長期間に及び、二0年前後ないしはそれ以上に亘るものばかりである。そして、その就労場所や職種は種々様々であり、したがって粉じんに曝露する程度にも差異はあるが、おしなべて甚だしい粉じん職場であったことは既にみたところである。しかも、この間における被告会社の債務不履行ないしは不法行為の態様が甚だ芳しくなく、またその程度も著しいものであることについても同様に既に認定・判断したとおりである。

右の諸事情は、慰藉料額を算定するに当たり、いずれもこれを加算する方向に作用する重要な要素であるものといわなければならない。

反面、溝井助吉及び渡邊三郎の被告会社における稼働期間は通算してもそれぞれ一0年七か月及び六年六か月に過ぎず、武田直次郎及び渡部岩三郎のそれは、いずれも四年余という短期間にとどまり、しかも、右四名とも無視することのできない程度の他粉じん職歴を有することは既に前記第四、二2でみたとおりであって、このことは相対的には慰藉料額を減額する方向に作用するものとせざるをえない。特に、武田直次郎及び渡部岩三郎については、被告会社における粉じん作業と同人らのじん肺罹患(症状の増悪を含む)との因果関係自体は認めることはできるものの、他粉じん職歴の影響も相当に大きかったものと推認されるから、右両名についてはこの点をも併せ考慮する必要がある。

5  原告ら元従業員又はその相続人が別紙七保険給付一覧表に記載したとおりの各給付金を受領したこと自体は原告らにおいて明らかに争わないからこれを自白したものとみなされる。

6  以上検討した諸事情を総合考慮して判断すれば、慰藉料は、じん肺に罹患したことが原因となって死亡した伊藤七蔵、後藤慶治、高木隈雄、高橋利右衛門、平澤戰治、皆川宮次、川﨑喜代、本多友治郎、佐々木栄治については各二000万円、死亡してはいるが、その死因とじん肺との因果関係が判然としない小山武及び鈴木民之進については、同人らの管理区分(いずれも管理三イ)に従い各一四00万円、管理四の名城安恵、遠藤寅雄、高橋重度については各一八00万円、管理三ロの杉島十喜郎、菅野尚については各一六00万円、管理三イの金野武雄、三本松良徳については各一四00万円、管理二の小暮皖一、平澤景和については各一二00万円、管理四で既に死亡してはいるが、被告会社における就労期間が比較的短く、又他粉じん職歴もある渡邊三郎については一四00万円、管理四で、被告会社における就労期間もそれなりの長さではあるが、他粉じん職歴も相当期間に及んでいる溝井助吉についても一四00万円、いずれも管理四であるが、被告会社における就労期間が短いうえ、他粉じん職歴の影響も大いに考えられる武田直次郎(じん肺に罹患したことに起因して既に死亡している)、渡部岩三郎については各八00万円とするのが相当である。

二弁護士費用

原告らが原告らの訴訟代理人らに本件訴訟の遂行を委任したことは記録上明らかであるところ、本件訴訟は法律構成及び事実の証明の両面に亘って相当困難なものであるといって差し支えないこと、それ故に原告ら訴訟代理人らとしては、まず訴訟の提起に至るまでの準備に多大の労力を費やしたであろうこと、当審における審理経過をみても、ほぼ一か月に一回のペースで可能な限り充実した審理を目指し、双方代理人ともに基本的にはよくこれに応えてくれたものと評することができるにも拘らず、結局約四年間を要したことなどの諸事情及び前記一の慰藉料の認容額等を考慮すると、原告らが原告ら訴訟代理人らに支払うべき弁護士費用のうち、認容にかかる各慰藉料額の一割に相当する金額をもって被告に請求しうるものと認めるのが相当である。

第七消滅時効

一消滅時効の完成の有無

1  安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権は、契約関係上の債権であるから、民法一六六条及び一六七条の適用を受け、「権利を行使することを得る時」より一0時の経過によって時効により消滅するものと解すべきである。

(一) 被告は、右時効期間につき、原告ら元従業員と被告との雇用契約は商行為であるから、右契約より生じた本件損害賠償請求権は、商法五二二条の適用により五年間の消滅時効期間に服すると主張するが、安全配慮義務は雇用契約に付随して信義則上認められる義務であって、その違反に基づく本件損害賠償債務は、雇用契約に基づく本来の給付義務とはその法的性質を異にし、商事取引関係の迅速な決済のための短期消滅時効に服するものではないから、被告の右主張は採用できない。

(二) また、被告は、右「権利を行使することを得る時」につき、安全配慮義務それ自体とその違反に基づく損害賠償債務の間に同一性があることを前提として、本来の債務である安全配慮義務の履行を請求できる最終時点である退職日ないし粉じん職場離脱日から時効が進行すると主張する。

しかし、安全配慮義務は、それが認められる状況(危険)が存在する間継続して生ずる義務であるとともに、そのような状況がなくなれば当然に消滅する性質のものであって、危険の存在する間に安全配慮義務違反による損害が発生した場合は、右損害の賠償を請求すると同時に安全配慮義務自体の履行を請求することができるし、危険がなくなった後に安全配慮義務違反による損害が発生した場合は、もはや安全配慮義務自体は消滅しており、それに代わるものとしての損害賠償債務が発生するわけではない(安全配慮義務がその違反に基づく損害賠償債務に転化するわけではない)から、安全配慮義務違反に基づく損害賠償債務を、単純に安全配慮義務の内容が変更されたものとみることはできず、両者の間に本来的給付とそれに代わる填補賠償義務との間に認められるような債務の同一性を観念することはできない。

のみならず、安全配慮義務自体はその性質上時効にかからない義務であるから、この義務と安全配慮義務違反に基づく損害賠償債務を一体のものとしてその消滅時効を論じることには本来無理があるうえ、仮に被告主張のように、安全配慮義務の履行を請求できる最終時点である退職日ないし粉じん職場離脱日から時効が進行するものと解するならば、右時点後一0年以上を経過してからじん肺が発症した者については、じん肺罹患による損害賠償を請求する機会のないうちに右損害賠償請求権が時効により消滅するという極めて不合理な結果を招来することとなる。

したがって、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点は、安全配慮義務それ自体とは切り離して論じられなければならない。

(三) このようにみてくると、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効は、右請求権が発生しこれを行使するにつき法律上の障害がなくなった時から進行するものと考えるのが相当である。

そして、この点について更に敷衍すれば、右請求権を行使すべきことが期待ないし要求される時から進行するものと解されるべきであって、その具体的・現実的可能性までが求められるものではないと考える。

そこで、本件に即して右損害賠償請求権の発生時期及び消滅時効の起算点を検討するに、原告ら元従業員が被告に対して右損害賠償請求権を取得したのは、被告の安全配慮義務違反により原告ら元従業員に具体的な損害が発生した時というべきであるが、ここにいう損害とは、じん肺罹患及びその症状増悪による健康被害を指すものと解すべきところ、前記第四、一で認定したところによれば、じん肺の症状は、粉じんの曝露から通常長期の潜伏期間を経て発現し、肺に沈着した粉じんの量に応じてその症状が進行する(但し、その進行の経過は個々の患者によってさまざまであり、急激に症状の増悪する者もあれば、進行の著しく緩慢な者もある)というものであって、じん肺罹患の時期自体不明確なものであるうえ、じん肺罹患による被害も固定的なものではなく、日々拡大進行していくものであることが認められる。

それ故、原告ら元従業員が珪肺ないしじん肺についての最初の行政決定を受けた時、或いは、遅くとも要療養の行政決定がなされた時から時効が進行を開始するという被告の主張をそのまま採用することはできない。何故なら、右主張は、進行性というじん肺被害の特質を軽視するものであり、そのため損害が未だ拡大・進行していて固定せず、その全容を把握することができない場合にまで時効の進行を認めることにならざるを得ないからである。一方、原告らは、このようなじん肺被害の特質に鑑み、じん肺被害が最も拡大した時点、すなわちじん肺患者の死亡までは損害が確定せず、したがってそれまでは時効は進行を開始しないと主張する。確かに、右にみたところによれば、原告らの立論にも一応理由がないわけではないが、〈証拠〉(労働科学六五巻四号所収の「離職後のじん肺X線所見の進行と進展様式」と題する海老原勇医師の論文)によれば、粉じん作業離職後のじん肺の進行に関する研究報告は少なく、特にその進展様式についての検討は殆ど見られないといった状況であるというのであり、これが現時点で最新のものといってもよい文献であることを考えるならば、右の指摘はそのまま今日の研究状況を示しているものと理解して差し支えあるまい。そうすると、右〈証拠〉をはじめ、須田和子「粉じん作業離職後のじん肺問題」(労働科学五六巻四号所収。〈証拠〉)、海老原勇「元鉱山労働者をとおしてみたじん肺の諸問題」(労働の科学三一巻五号所収。〈証拠〉)など、粉じん作業離職後におけるじん肺の進行性を実証する文献もみられるものの、この点についてはなお未解明の部分も大きく、まして患者による個人差も十分考えられるというのであるから、この点について明確な認識に到達することは決して容易なことではない。しかも、〈証拠〉によれば、近年じん肺患者の著しい延命傾向も窺い知れるところであり、このことは本件の患者原告らの中に相当な高齢者も少なからずおり、また、既に死亡した原告ら元従業員にしてもその死亡時の年齢が七0歳を越えていた者が相当数いることなどによっても裏付けられているところである。以上みたところによれば、じん肺患者の死亡が必ずしもじん肺に起因するものとは断じ難いという場合もありうるものというべく、結局、本件全証拠によっても、じん肺に罹患した以上必ずその症状が死に至るまで確実に増悪するということまでは認められないことに帰するから、原告ら主張のように一律に死亡の時点まで損害が確定せず、時効が進行しないものとして扱うのは相当でない。

(四) それでは、右請求権の消滅時効の起算点はいつであるかといえば、当裁判所は当該じん肺患者がじん肺法に基づくじん肺管理区分の管理四と決定された時点から消滅時効が進行するものと考える(但し、じん肺患者が管理四の決定を受けるに至らないまま死亡した時は死亡時から消滅時効が進行するものと解すべきは当然である)。既に前記第六で述べたとおり、じん肺管理区分は行政上の健康管理区分にすぎないわけではあるが、管理四はじん肺管理区分の最終区分であって、これ以上重い区分はなく、その内容においても、じん肺健康診断の結果が「(1)エックス線写真の像が第四型(大陰影の大きさが一側の肺野の三分の一を越えるものに限る)と認められるもの (2)エックス線写真の像が第一型、第二型、第三型又は第四型(大陰影の大きさが一側の肺野の三分の一以下のものに限る)で、じん肺による著しい肺機能の障害があると認められもの」とされ(同法四条二項)、したがって又、合併症の有無に拘らず療養を要するものとされている(同法二三条)ことからも明らかなように、その客観的な症状は既に相当程度進行した重いものであって、患者側においても、管理四と決定されたということはいわば最終宣告に等しく、極めて深刻かつ重大な意味合いをもって受けとめざるをえないものと思われる。勿論、じん肺被害の進行性という特質に鑑みれば、管理四と決定された以後も更にその症状は進行・増悪することは客観的にはありうるわけではあるが、だからといってそれ以上待っても更に重い管理区分の決定を受けられるということは少なくとも現行法上はありえないのであるから、管理四の決定を受けた以上は、その者が民事上の損害賠償請求権の行使をなすべきことを期待し、或いは要求しても極めて自然な成り行きであって、被害者の救済という見地からしても、決して不当・過酷な結果をもたらすということはないものと考える。

なお、本件においては、原告ら元従業員の中に、旧じん肺法下のじん肺健康診断と健康管理区分により管理四と決定された者が相当数存在する。後藤慶治、高橋利右衛門、武田直次郎、平澤戰治、溝井助吉、皆川宮次、名城安恵、渡部岩三郎、川﨑喜代、本多友治郎、遠藤寅雄、高橋重度、佐々木栄治がそうである。そこで、以下、この点について検討を加えておくこととするに、既に前記第六、一3において、必要な範囲で当裁判所の考えを明らかにしたところであるが、旧じん肺法についてはその後重要な改正がなされ現行のじん肺法に至っているのであり、それは管理区分の考え方にも及んでいるのであるから、右の原告ら元従業員が現行じん肺法下のじん肺管理区分において管理四と決定されるか否かは厳密には断定し難いものが残るといわなければならない。しかし、右改正に伴う経過措置として、旧じん肺法下の健康管理区分による管理四は現行じん肺法下のじん肺管理区分による管理四とみなすものとされていることも既にみたところである。もっとも、現行じん肺法は昭和五三年三月三一日から施行されたわけであるから、旧じん肺法下の健康管理区分により管理四と決定されていた者については、ここから消滅時効が進行を開始すべきものとする立論も全く成立する余地がないわけではない。しかし、右経過措置の趣旨は、あらゆる意味で両者を同視して(したがって又その旨の決定がなされた時に遡って)取り扱うというものと解すべきであるし、また旧じん肺法下の健康管理区分による管理四もやはり最終の管理区分であったということ自体は現行じん肺法下のじん肺管理区分の管理四と同様である(但し、活動性の肺結核があるが故に旧法下の管理四とされていた者については、右肺結核がなくなるか、或いはそこまではいかないとしても、不活動性のそれになったり、病勢の進行のおそれがないものになるなどすれば管理区分が異なってくる可能性は残されていたわけではある)から、特段の事情のない限り、旧じん肺法下における健康管理区分による管理四の決定を受けた者についても、その時点から消滅時効が進行を開始するものとして取り扱うこととするのが相当である。

(五) ところで、原告らは又、債権者の職業、地位、教育程度などに照らして、現実に権利を行使することを期待ないし要求することができる時期に至らない限り消滅時効は進行しないとして、本件においては、第一次訴訟(昭和六0年(ワ)第一六二号事件)の原告らについては弁護士による説明会が開かれた時、第二次訴訟(昭和六一年(ワ)第七五号事件)の原告らについては第一次訴訟が提起された時から進行するものと解すべきであるなどとも主張する。そして、ほぼこれと同様の見解に立つ裁判例も散見される。しかしながら、時効の進行の開始時期が右のように多分に主観的な事情によって左右されるとすれば、制度上できる限り客観的で明確なものであることが要求されているというべき時効の起算点が曖昧になり、法的安定性が害されるおそれがあるものといわなければならないから、右の見解にはた易く左袒することができない。後記二においてみるとおり、これらの事情は、被告において時効を援用することが権利の濫用にあたるか否かの検討をする際の原告ら側における一つの事情として考慮すれば足り、或いはその場面ではじめて考慮すべき一要素にとどまるものと考える。原告らの右主張はこれを採用することができない。

2  以上検討したところによれば、原告ら元従業員のうち、後藤慶治、溝井助吉、渡部岩三郎、遠藤寅雄、佐々木栄治については、同人らが管理四の行政決定を受けた日から同人らの本件訴えの提起までに既に一0年を経過したことが明らかであるから、同人らの本件損害賠償請求権(被告の安全配慮義務違反によるそれ)については、いずれも消滅時効期間が満了したものといわなければならない。

また、高橋重度については、便宜ここで、同人の時効中断の再抗弁につき判断しておくこととするに、同人は昭和五一年四月一三日に管理四の決定を受けているものであるところ、同人が昭和六一年三月二九日付の内容証明郵便をもって被告に対し本件損害賠償債務の履行を催告し、右催告書を被告が受領したことは当事者間に争いがなく、右事実その他弁論の全趣旨によれば、右催告書はそのころ(右の翌日ころ)被告に到達したものと認められるから、昭和六一年五月一三日に高橋重度が本訴を提起したことにより、同人の本件損害賠償請求権の消滅時効は一応中断したものとされることになる。それ故、同人の本件損害賠償請求権については未だ時効期間が満了していないことは明白である。

3 不法行為に基づく損害賠償請求権は、(イ)被害者が損害及び加害者を知った時から三年で時効消滅し、或いは(ロ)不法行為の時から二0年を経過したときも消滅するものとされている。もっとも、(ロ)については、民法七二四条後段の規定の法意を長期消滅時効と解すべきか、それとも除斥期間と解すべきかにつき学説上も争いがあるところ、当裁判所は、本件弁論終結後ではあるが、今般、右について除斥期間を定めたものと解すべきであるとする最一小判平成元年一二月二一日(裁判所時報一0一八号一頁以下)に接したので、本件においてもこれに従って解釈・判断をなすこととする。そこで、まず(ロ)についてみるに、被告は、右にいう「不法行為の時」につき、遅くとも原告ら元従業員が被告会社(渡部岩三郎については長倉炭砿株式会社)における粉じん作業から離れた日と解すべきである旨主張する。これは、「不法行為の時」をもって「加害行為がなされた時」と解するものであって、民法七二四条の文言には最も忠実かつ素直な解釈であると評することもできる見解ではある(このことは民法七二四条を鉱業法一一五条一項後段と対比するとき一層明らかである)が、これによるときは、本件のじん肺被害のように加害行為後長期間を経て初めて損害が顕在化するという場合には、被害者の救済に悖ること甚だしく、時には被害者が全く救済を受けられないという不当な事態さえ生ずることにもなる。特に、前記のとおり民法七二四条後段の法意を除斥期間を定めたものと解するときは、右の幣は一層顕わになることは避け難く、結局、右見解を採用することはできないものといわざるをえない。そうすると、この点については、「不法行為の構成要件が充足された時」、換言すれば「加害行為があり、しかもそれによる損害が発生した時」とする解釈をもって基本的に正当であるものとすべきことになろう。しかし、他方で、不法行為をめぐる法律関係はいわば一般市民間に偶然的に生じたものにすぎないというその本来的性格に鑑れば、加害者といえども余りに長く不安定な地位に置かれるのは決して望ましいこととはいえないのであり、このことは、本件じん肺のような進行・拡大する被害が問題とされる場合にも考慮しなければならない事柄である。以上、検討したところを総合勘案すると、ここに「損害が発生した時」というのは、必ずしも損害の全部が確定していなければならないというわけではなく損害の一部でも、それが発生していることが客観的に明らかになったことをもって足りるものというべきであり、これを本件に則していえば、原告ら元従業員につき最初の行政決定がなされた時をもって「損害が発生した時」とするのが相当である。そうすると、本件における除斥期間の起算点としては、加害行為の止んだ時(原告ら元従業員が被告会社の粉じん職場を離れた日)と当該原告ら元従業員につき最初の行政決定がなされた時とを比較していずれか遅い方をとるべきことになる。ところで、原告ら元従業員が被告会社の粉じん職場を離れた日は、伊藤七蔵、木暮皖一、名城安恵、遠藤寅雄、三本松良徳を除くその余の者については、別紙六時効の起算日に関する一覧表の同欄記載のとおりの日であることは当事者間に争いがなく、前記第四、二1でみたところに照らせば、右伊藤七蔵ら五名についてのそれはいずれも右別紙六の退職日欄記載のとおりの日であるものと解すべきである。また、川﨑喜代のそれを除く、伊藤七蔵、金野武雄、後藤慶治、杉島十喜郎、高木隈雄、高橋利右衛門、平澤戰治、鈴木民之進、高橋重度、佐々木栄治の最初の行政決定日が右別紙六の同欄記載のとおりの日であることは当事者間に争いがなく、川崎喜代については〈証拠〉によれば昭和三六年一一月二七日であるものと認められ、更に右欄が空白の者については要療養の行政決定日が最初の行政決定日となるというべきところ、木暮皖一、小山武、武田直次郎、溝井助吉、皆川宮次、名城安恵、渡邊三郎、渡部岩三郎、本多友治郎、遠藤寅雄、菅野尚、三本松良徳、平澤景和のそれが右別紙六の要療養の行政決定日欄記載のとおりの日であることも当事者間に争いがない。以上の事実を踏まえて(ロ)について検討すれば、金野武雄、後藤慶治、高橋利右衛門、鈴木民之進、佐々木栄治については、いずれも「不法行為の時」から本件各訴えの提起までに二0年を経過していることが明らかであるから、これらの者についての本件損害賠償請求権(被告の不法行為に基づくそれ)は既に除斥期間の経過により消滅しているものといわなければならない。

次に、(イ)についてみるに、原告ら元従業員において、最初の行政決定を受けた時には、「加害者」が被告であることを知ったであろうことは明白である。問題は「損害を知った時」であり、これについて被告は、原告ら元従業員につき最初の行政決定がなされた日をいうと主張するが、当裁判所は、右の「損害を知った時」とは損害の全容が把握されていることをいうものと解するから、前記1においてみた安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効を考える際のその起算点と同様に、原告ら元従業員においてじん肺法下のじん肺管理区分による管理四の決定を受けた時(旧じん肺法下の健康管理区分による管理四の決定を受けた時についてもこれと同視すべきであることも又前同様である)と解すべきものと考える。これらの点を前提にして(イ)について検討すれば、後藤慶治、高橋利右衛門、武田直次郎、平澤戰治、溝井助吉、皆川宮次、名城安恵、渡部岩三郎、川崎喜代、本多友治郎、遠藤寅雄、高橋重度、佐々木栄治にあっては各管理四の決定を受けた日から本件各訴えの提起(高橋重度については前記2で判断した催告をなした日)までにいずれも三年を経過していることは明白であって、これらの者の本件損害賠償請求権(被告の不法行為に基づくそれ)は既に時効消滅しているということになる。

以上を要するに、被告の不法行為に基づく原告ら元従業員の本件損害賠償請求権は、伊藤七蔵、木暮皖一、小山武、杉島十喜郎、高木隈雄、渡邊三郎、菅野尚、三本松良徳、平澤景和のそれを除きいずれも除斥期間の経過或いは時効により消滅しているということに帰する。

二時効の援用と権利の濫用

1 被告が、前記一でみたところにより、その損害賠償請求権の消滅時効が完成したとされる原告ら元従業員につき、同人らないしその遺族原告らに対して右消滅時効を援用したことは記録上明らかであるところ、原告らは、被告の右時効の援用は権利の濫用であって許されないと主張するので、以下、まず不法行為に基づく損害賠償請求権に関する時効の援用から検討を加えることとする。

ところで、原告らの右主張のうち、粉じん職場を離脱した後既に二0年を経過した者の関係におけるそれについては、民法七二四条後段の法意を長期消滅時効を定めたものであるとする前提に立ってこれをなしているものであることは明白であるところ、既に前記一3でみたとおりこれは除斥期間を定めたものと解すべきであるから、これ以上検討を加えるまでもなく、原告らの右主張は主張自体失当であるものといわなければならない。

そこで、以下、短期消滅時効の成立が認められた原告ら元従業員の関係において原告らの右主張を検討するに、結論から先に述べれば、当裁判所は、安全配慮義務違反という債務不履行構成による損害賠償請求権の法理が登場するに至った動機ないしは経緯に鑑み、不法行為に基づく損害賠償請求権についての消滅時効の援用を権利の濫用としてこれを許されないというような態度はとるべきではないものと考える。思うに、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権という法律構成が最高裁判決によって認知された後においても、これと不法行為に基づく損害賠償請求権との異同が種々論じられてきたわけであるが、その最も鮮明な差異が消滅時効、とりわけ時効期間にあることはおそらく異論を見ないであろう。すなわち、後者の短期消滅時効が三年とされているところからくる被害者救済の不十分さを補うという点に前者の主たる意図があったことは明白であって、この法理が判例・学説上もすっかり定着した感のある現在、不法行為に基づく損害賠償請求権が時効消滅している場合であっても、債務不履行構成をすることによってなお救済される余地が十分に残されていることになるのである。そうであれば、安易に権利濫用という一般条項を持ち出すのではなく、可能な限り安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求という債務不履行構成による請求権の行使の余地を探るべきであり、現に本件においてもそのような請求がなされていることでもあるから、それで十分であって、敢えて不法行為に基づく損害賠償請求権についての消滅時効の援用が権利の濫用であるか否かを論ずる必要はないものといわなければならない。もっとも、遅延損害金の起算日についての判例の考え方に立てば、不法行為に基づく損害賠償請求権の方が被害者(債権者)側にとってより有利であるということにはなるが、これはたかだか付帯請求に関する事柄であって、そのために消滅時効の援用を権利濫用とする必要があるなどと考えるのは本末転倒も甚だしく、およそ問題になりえないものといってよい。

右のとおりであるから、この点に関する原告らの主張を採用することはできない。

2  次に、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権に関する時効の援用についてみるに、これ又結論から先に述べれば、本件にあっては被告がこれを援用することは権利の濫用にあたり許されないものと考える。

以下、その理由を述べる。

(一) わが民法は、消滅時効期間が経過したときは、債務者において時効を援用することによって債権を消滅させうるものとしているわけであるが、これとて、右時効を援用することが著しく正義に反し、かえって時効制度の認められた趣旨に反する結果となるというような場合においても、その援用が絶対無制限に許されなければならないというものではない。そもそも、時の経過のみに結果発生を委ねることをせず、債務者において援用するか否かの選択をする余地を残したところにも、より妥当な結果を得たいとする法思想が窺われるということもできるのである。

そこで、まず消滅時効制度の趣旨についてみるに、ぎりぎりのところまで突きつめて考えるならば、その主たる目的は立証上の困難の故に債務者が二重弁済を余儀なくされるのを回避することにあるものと解され、また、時効によって真実の権利者がその権利を喪失することがありうるとしても、それは「権利の上に眠る者は保護しない」というところにその根拠が求められるべきものと考える。

(二) これを本件についてみると、じん肺罹患による被害は極めて深刻なものであるところ、右被害は被告(長倉炭砿株式会社を含む。以下、同じ)の義務違反によって生じたものであることが明白であるうえ、その義務違反の程度も著しく、ことに被告は遅くとも昭和三一年の珪肺健康診断の実施結果を知った後は、徹底したじん肺防止対策を取らないかぎり一定の割合でじん肺患者を発生することを認識しながら右措置を怠っていたものであって、じん肺患者の発生を容認していたと評されても仕方がない状況であり、その義務違反の主観的態様が悪質であること、被告におけるじん肺教育の杜撰さが、原告ら元従業員の被害認識を妨げ、権利行使を阻害した面があること、被告の現在の盛業の背景には原告ら元従業員のじん肺罹患という犠牲が存在するという関係にあることなどの事情が指摘できるのであって、これらを考え併せれば、原告ら元従業員の救済はまさに被告の責任であり、被告には右責務を果たすことが強く求められているものといわなければならない。

しかるに、被告が右義務違反に基づく賠償義務を果たしていないことは明らかであり、したがって、本件が、時間の経過により証拠が散逸したため被告において弁済の事実を立証しえないという場合にあたらないことは疑問の余地がないから、前記(一)でみた消滅時効制度の趣旨からすれば被告に時効による保護を与える必要性は乏しく、被告が、単に時効期間が経過したというだけの理由で原告らに対する損害賠償責任を拒否することは著しく正義に反するものというべきである。

(なお付言するに、本件のような損害賠償請求権の行使にあっては、往々にして、弁済の有無というよりも、むしろ被告の義務違反の有無が中心的な争点となるものというべきところ、その判断に供すべき資料が時間の経過により散逸し、或いは収集困難になることは避け難く、特に、じん肺被害が問題とされている本件のような場合においては、被告の義務違反が問われる時期自体が相当以前の時点まで遡ることは避け難いところであるから、右の傾向は更に著しいものがあろう。そして、これは単なる弁済の事実の立証とは比べようもない程に複雑・困難なものであり、一般に時の経過が被告の防御を困難にすることは疑問の余地がないから、このような困難を回避するという意味においては、やはりできる限り早期の権利行使が期待されるということは多言を要しないところである。しかし、右の点の主張・立証責任は原告側にあることとされているわけであるから、この困難は被告側以上に原告側の方がより大きいということになり、結局、この場面においても被告側の事情のみをとりたてて配慮するには及ばないというに帰する。したがって、右の困難も被告に時効の援用を許されなければならない決め手とはなりえないのである。)

他方、後藤慶治、溝井助吉、渡部岩三郎、遠藤寅雄、佐々木栄治の関係の提訴が後れた事情をみるに、その最大の理由は本件訴訟が事実認定上も法律構成上も相当に複雑・困難なものの部類に属することにあるものといわなければならない。それ故に、現実に本訴提起に踏み切るためには、この方面の専門的知識と一定の力量のある弁護士が相当数の規模で訴訟代理人となってくれることが必要不可欠であり、場合によっては、更に医師や学者等の協力・援助が必要になるようなことも考えられるのであって、これら専門家集団の尽力による周到な準備の上に初めて本訴提起が可能であったということは見易いところである。その他にも、既に認定・判断したとおり被告のじん肺教育が不十分であったことが原告ら元従業員のじん肺に対する正確な認識を妨げ、ひいては本訴提起を遅らせた一因にもなったものと推測されるのであり、更には、右原告ら元従業員の多くが長年被告会社に雇傭されていたところからくる被告会社への恩義や遠慮といった類のものも遠因をなしているのではないかとも考えられるのである。要するに、本訴提起にはあらゆる意味で「機が熟する」ことが必要であったものというべく、いずれにしても、このような状況下におかれていた前記後藤慶治らの関係の原告らを権利の上に眠っていた者として非難することはできない。また、右原告らにおいて、被告の応訴が著しく困難になるのを狙って敢えて提訴を遅らせたというような事情もおよそ認められないのである。

そうすると、右原告らに時効による権利消滅の不利益を負わしめるのは決して相当なことではないものといわなければならない。

(三)  以上検討したところによれば、被告の消滅時効の援用は客観的にも著しく正義に反し、消滅時効制度の趣旨にも沿わない結果となるものであるから、権利の濫用として許されないというべきである。

第八寄与率による損害賠償額の減額

前認定のとおり、被告の債務不履行ないし不法行為と原告ら元従業員の被った損害との間に相当因果関係が認められる以上、被告は原則として右損害の全部につき賠償義務を負うと言うべきであるが、右損害の発生に他の要因が寄与していることが明らかで、しかもその寄与の度合が極めて大きいなど、右要因を無視して賠償額を定めることが著しく不公平であるとの感を抱かせるような場合には、右要因を損害賠償額の減額の要素として考慮することも許されると解すべきである。

そこで、これを本件についてみると、被告は右のような要因として、原告ら元従業員の被告会社炭鉱以外での粉じん職歴、虚弱体質的素因、アレルギー体質的素因を主張するのであるが、まず他粉じん職歴についていえば、武田直次郎及び渡部岩三郎を除く原告ら元従業員についてはそれが前認定の損害の発生に寄与し、しかもその寄与の度合が極めて大きいことを裏付けるだけの具体的な証拠がないものといわざるをえない(ただ、溝井助吉と渡邊三郎については被告会社における就労期間と他粉じん職場におけるそれとの相関関係を踏まえて慰藉料額の算定に一定程度反映させたことは前記第六のとおりである)。また、武田直次郎及び渡部岩三郎の両名については、前記のとおり被告の責任自体は否定できないにしても、他粉じん職歴も又相当大きい要因を占めていることが推認されるのである。ただ、右両名が従事した他粉じん職場の作業環境などが具体的かつ詳細に明らかにされているわけではなく、また右両名の被告会社採用時の健康状態についてもこれを把握する資料はおよそないのであるから、右のとおり推認されるということをもってしても被告がいうような寄与率による減額を認めるまでには至らず、せいぜい慰藉料額算定の一要素として考慮するにとどめることとするのが相当であり、前記第六のとおり既にそのような取扱いをしているのであるから、結局右両名の関係においても被告の主張を採用することはできないことに帰する。次に、虚弱体質的素因については、仮にそれが認められるとしても、右のような素因は一般人においても普通に見られるものであって何ら特殊なものではないから、これを損害賠償額減額の要素とすることは相当でなく、又、アレルギー体質的素因については、仮にそれが認められるとしても、そもそも右素因と原告ら元従業員の罹患した無機粉じんの吸入によるじん肺との因果関係が証拠上明らかでないから、これを減額の要素となしえないのは当然である。

したがって、被告の右主張はすべて採用できない。

第九危険への接近

被告は、原告ら元従業員がじん肺発生の危険性を認識しながら被告会社炭鉱における就労を継続した旨主張するが、右のような事実を認めるに足りる証拠はないから、被告の主張はその前提を欠いているものという外はない。

第一0過失相殺

一被告は、いわば危険手当てとして坑内作業員に高額な賃金を支給していたのであるから、これを受領していた原告ら元従業員は、危険がじん肺罹患という形で現実化し、損害が発生した以上これについて応分の負担をすべきであると主張するが、被告が坑内作業員に支給した賃金中に危険手当てにあたる部分が含まれていたと認めるに足りる証拠はないから、右主張はその前提を欠いているものというべきであるし、そもそもこのような主張自体が通常の労働契約に対する理解にそぐわないものであって、到底採用することができない。

二被告は、原告ら元従業員の中に防じんマスクを着用しなかった者がある(この点は当事者間に争いがない)として、これを過失相殺事由として主張するが、前記第五、一2(四)で認定したとおり、被告会社炭鉱の各坑の坑内温度は概ね三0度以上で湿度も高く、作業内容によっては常時マスクを着用することが困難な状況にあったうえ、被告はじん肺防止のためのマスク着用の意義について十分な教育を行わず、その着用を徹底させるための指導も不十分であったのであるから、マスク不着用をもって原告ら元従業員の過失とみることはできない。

三平澤戰治が、昭和四三年ころ、管理三の決定を受けた際に被告からなされた坑外作業への配置転換の勧告を拒否したことは当事者間に争いがない。しかし、前記第五、一2(六)、(七)で認定したところによれば、同人が配置転換を拒否したのは、被告の支給する転換手当てによって配置転換にともなう極端な賃金の減少を到底補うことができなかったこと、被告におけるじん肺教育の不足により同人においてじん肺被害の深刻さを認識しえなかったこと等の事情によるものと認められるから、右配置転換拒否をもって同人の過失ということはできない。

四被告は、原告ら元従業員のうち、身体の不調を自覚しながら療養を怠ったり、じん肺の認定を受けながら土方作業などの重労働に従事した者については自己健康管理義務違反の過失が認められると主張するが、療養懈怠といっても特に著しいそれは認められないうえ、仮にそれらしきものがあるとしても、それは前認定の事実によれば、被告のじん肺教育の不足が影響してのことであるから、被告がこのような主張をすること自体相当でない。また、じん肺認定後に土方作業等の労働に従事していた者がいることについては、当事者間に争いがなく、一般にそのような労働が特に要療養とされているじん肺患者にとって好ましい影響をもたらさないであろうことは推測できないことではないが、それ以上にじん肺の症状にどのような悪影響を与えたかが証拠上明らかでないうえ、可能な限り労働に従事したいとするのは人間本来の欲求ともいうべきものであり、しかも他に生活の糧を得る術とてない原告ら元従業員が生活のために肉体労働に従事したことを非難することはできず、いずれにしてもこれを損害額算定にあたり斟酌すべき過失とみることはできない。

五原告ら元従業員の中に喫煙の習慣を有する者がいたことは当事者間に争いがないところ、喫煙については、それがじん肺の罹患又はその症状の増悪にどのように影響するのかが証拠上明らかではないが、一般に呼吸器系疾患に悪影響を及ぼすであろうことは常識的な理解に属する事柄であるから、少なくとも自己がじん肺に罹患していることを認識した後においてもなお漫然と喫煙を続けている者については、自己の健康管理に対する無関心な態度を示すものと評価されるのもやむをえないところである。しかし、喫煙していた原告ら元従業員にあっても、その後は、喫煙や節煙のための真剣な努力を続けていたことが関係証拠から窺えるのであって、いずれにしても、本件において、喫煙をもって直ちに過失相殺をなすべき程の原告ら元従業員の過失とまでいうことはできない。

以上によれば、被告の過失相殺の抗弁はいずれも失当である。

第一一損益相殺

前記のとおり、原告ら元従業員又はその相続人が別紙七保険給付一覧表記載の各給付金を受領したこと自体は当事者間に争いがないものといってよいところ、被告は、右各給付金及び今後受領することが予定される給付金によって本件の損害が填補されるから、これを損害額から控除すべきであると主張する。

しかし、労災保険給付は、労災事故により労働者が被った財産上の損害の填補を目的とするものであって、精神上の損害填補の目的を含むものではないから、原告ら元従業員又はその相続人が今後受領する給付については勿論のこと、すでに受領した給付についても、これを原告らが受けるべき慰藉料額から控除することは許されない。また、厚生年金保険給付も同様の趣旨による生活保障を目的とするものと解するのが相当であるから、既受領分についても、将来分についても、これを慰藉料額から控除することは同様に許されないものというべきである。

もっとも、原告らにおいて右のような保険給付を受けているということは、慰藉料額を算定する際の一要素として考慮することまで許されないというものではない。のみならず、当裁判所はこれを重要な事情のひとつとして考慮すべきものと考えるところであり、現にそのような取扱いをしたことは前記第六においてみたとおりである。

第一二遅延損害金について

本件においては、原告ら元従業員全員の関係で被告の安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権が認められるほか、伊藤七蔵、木暮皖一、小山武、杉島十喜郎、高木隈雄、渡邊三郎、菅野尚、三本松良徳、平澤景和については不法行為に基づくそれも認められることは既にみたとおりである。

そうすると、右のうち現に生存する木暮皖一、杉島十喜郎、菅野尚、三本松良徳、平澤景和及び本訴係属中に死亡してはいるが、その死因とじん肺との因果関係が判然としないため生存者と同様の基準に基づき慰藉料額が定められた小山武においては、いずれも、前記第六で判断した各慰藉料額及びその各一割に相当する弁護士費用の合計金額に対する各最終行政決定日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を請求しうべきこととなる。

また、右のうち伊藤七蔵、高木隈雄、渡邊三郎はいずれも本訴訟の係属中にじん肺に罹患していたことが原因となって死亡したものであるから、その各死亡時から、前記第六で判断した各慰藉料額及びその各一割に相当する弁護士費用の合計金額に対する前同様の遅延損害金を請求しうることは明らかであるが、更に、その各最終行政決定日から各死亡の日の前日までの間、各管理区分に応じた慰藉料額等に対する前同様の遅延損害金を加算するのが相当である。これによれば、右加算分は、伊藤七蔵については一七六0万円に対する昭和五三年一0月六日から昭和六二年二月一九日までの間の年五分の割合による遅延損害金、高木隈雄については同じく一七六0万円に対する昭和五六年一月五日から昭和六三年五月二二日までの間の右同様の遅延損害金、渡邊三郎については一三八六万円(管理四の場合の平均的な慰藉料額は一八00万円であるところ同人の個別的事情を考慮して減額した一二六0万円にその一割の弁護士費用を合計したもの)に対する昭和五八年三月一六日から昭和六二年七月一七日までの間の前同様の遅延損害金ということになる。

その余の原告ら元従業員の関係においては、いずれも被告の安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権であるから、判例の考え方に則り原則として催告の日の翌日(高橋重度については本訴提起に先立ち昭和六一年三月二九日付内容証明郵便で履行を催告し、これが翌日ころには被告に到達しているものであるから更にその翌日たる三月三一日、その余の者については、第一次及び第二次の各訴訟毎に、その訴状送達の日の翌日である昭和六0年九月二八日及び昭和六一年五月二七日となる)から前同様の遅延損害金が付されるべきことなるわけであるが、本訴係属中にじん肺に罹患していたことに起因して死亡した後藤慶治、高橋利右衛門、武田直治郎、平澤戰治、皆川宮次については、その各死亡時から前記第六で判断した各慰藉科額(武田直次郎につき八00万円、その余の者についてはいずれも二000万円)に対する年五分の割合による遅延損害金を付す外に、右の者らについての訴状送達の日の翌日である昭和六0年九月二八日から各死亡の日の前日までの間の各管理区分に応じた慰藉料額等に対する前同様の遅延損害金を加算すべきこととなる。

これによれば、右加算分は、後藤慶治につき一九八0万円に対する昭和六0年一一月九日までの分、高橋利右衛門につき一九八0万円に対する平成元年四月一九日までの分、武田直次郎につき七九二万円(管理四の場合の平均的な慰藉料額は一八00万円であるところ同人の個別的事情により減額した七二0万円にその一割の弁護士費用を合計したもの)に対する昭和六一年一二月二二日までの分、平澤戰治につき一九八0万円に対する昭和六一年一月七日までの分、皆川宮次につき一九八0万円に対する昭和六三年一一月一0日までの分ということになる。

第一三相続

原告ら元従業員のうちの、死亡者、その死亡日、死亡従業員と遺族原告との身分関係が別紙三相続人一覧表の各該当欄記載のとおりであることについては当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、本多友治郎、鈴木民之進、佐々木栄治を除くその余の者については同表に掲げる相続人以外に他に相続人はいないことが認められる。したがって、遺族原告は、それぞれその相続分に応じて別紙一認容金額一覧表の「認容金額」欄記載の各金額の請求権と前記第一二でみた遅延損害金を承継取得したものと認められる。

第一四結論

以上のとおりであるから、原告らの本訴請求は、別紙一認容金額一覧表の「認容金額」合計欄記載の金額の各損害賠償金及び同表「遅延損害金」欄記載のとおりの遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を適用し、仮執行の宣言については同法一九六条一項を適用して、同表「認容金額」合計欄記載の各金額の各二分の一に限りこれを付することとする。

(裁判長裁判官髙橋一之 裁判官西理 裁判官庄司芳男)

別紙三、五、七 <省略>

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